画中人 WR-5・戦闘前
拙山
……その女性の名前は?
わからぬ。
聞かなかったのか?
聞けなかったのだ。
…………
その夢は、幻とも現実ともつかず、一年くらい経ったように感じる一方で、指をパチンと弾いた一瞬のようでもあったそうだ。住職様本人ですらあやふやな事象を、聞きようなどなかろう。
…………
拙僧は炎国を放浪している途中で、ふとこの話を思い出し、考えを巡らせた。もしかしたら住職様が拙僧をからかって適当な作り話をでっち上げただけかもしれないとも思った。
しかし炎国で聞き込みをすると、『拙山尽起図』は、意外にも有名な絵だったのだ。
聞くところによると、百年前に無名の画家が残した作品だという。かつてある皇族が大枚をはたいても手に入れられなかったことから有名になったそうだ。
そして放浪を続け、ちょうど灰斉山に差し掛かった時、拙僧は突然思い立ち、この機会に絵の中の奇景を探してみようと考えたのだ。
ははっ……その後、山の中で美しい景色を見つけて、気がついた時には、もうここにいたというわけだ。
灰斉山のあの古い家だな……アタシたちと同じ道をたどって来たんだな。
……つまり、ここは夢の中なのか?
もし夢だとすると、そなたからすれば拙僧は夢の中の幻想だ。では拙僧の話も信じられぬものとなるであろうな。
となればラヴァ殿は、いかにして目の前の景色が夢か否かを判断するのだ?
話がこんがらがってきた……頭がくらくらする……
じゃあ、ここから抜け出す方法は知ってるか?
いいや……拙僧はずっと旅を続けてきたが、いかにしてこの地から脱するかについては、未だ分からぬままだ。
……ずっと? オマエがここに来てどのくらい経つんだ?
もうずっと、ずっと前だ。仔細に数えると――
お茶が冷めますわ。話にばかり気を取られてないで、どうぞお飲みください。
ああ……すまない。
(ふぅ……)
……ん? そういえば、レイさんも、もしかして?
私はただの質屋の女将ですよ。
ラヴァさん……あなたの優しさは素晴らしいわ。墨魎の魔の手から町を救おうという気持ちにも感服します。でも時には、自身の安全を考えることも大事ですよ。
あの程度の怪物なんて、ロドスの精鋭からしたら脅威でもなんでもない。
間違いないな。ラヴァ殿の腕前なら、まったく心配いらぬ!
……それなら良いのですが。
ラヴァさん、質問があります。聞いていいものか分かりませんが。
構わない……というか、そんなに畏まらなくていいから……
ラヴァさんは、水面の月を覗いたことはありますか?
水面の月は、たとえ透き通った波に揉まれて、千々に裂かれて形を成さなくなったとしても、波風が収まればまた丸い月に戻ります。
だから水中でゆらめいている月を哀れに思ったとしても、それを助けようとして靴や着物を濡らす必要はないでしょう。
ラヴァさん……あなたは水面の月を掬い上げるために、心を尽くすようなことをしますか?
いや……しないと思う。そんなことをしても意味ないだろ?
急にどうしたんだ?
……私はラヴァさんにとっての月がどんな形かも知りませんし、何か間違いを指摘することもできません。ですが水面の月はどこまでいっても水面の月なのです。
ですから、私たちのために、そこまでなさる必要はないのです。
それはいったい……?
恩人様! 恩人様! ご無事ですか?
……あれぇ? お茶まで入れてもらってるのに、私たちを仲間外れにするなんてぇ~。
お二方も婆山町のお客様ですね? お茶を入れてきます。ついでにお菓子も持ってきますから、どうぞごゆっくり。
あの人はぁ?
ここの女将のレイさんだ。黎明の「黎」と書くそうだ。
恩人様、墨魎どもは? ああ、分かった! 恩人様の無敵の力で、奴らを全て追い払ったのですね!
――あの子は無事に送り届けたか?
大丈夫、無事だよぉ。
ああ、恩人様! なぜ私を信頼してくれないのです? たとえ針の山や火の海に放り込まれても涙を流さない私ですが、今はあまりの悲しみに涙が溢れそうです……!
お二方、お茶をどうぞ。
うう〜ん……匂いだけで高級なお茶ってわかるねぇ。
さすが恩人様はお目が高い! 私のような凡夫の舌には苦いだけで全く滋味を感じ取ることができません。
普通のお茶ですよ。町の市場には、このお茶しか売っていません。お口に合わなくても、どうぞお許しください。
はぁ~……普段は紅茶やコーヒーばっかりだけど、たまに炎国のお茶を楽しむのも、風情があっていいねぇ。
拙僧の故郷にも滋味深き茶葉がある。もし機会があれば、是非とも振る舞わせていただきたいものだ。
ふぁ……
あれぇ? ラヴァちゃん、眠くなっちゃったぁ?
いや、なんだかリラックスしたら気が抜けて……
お茶には心を穏やかにする作用がありますからね……皆さんの心を煩わせているこの一件も、疲れを溜めるだけでは解決できませんから。
しかし……やはり手がかりは何もないな。
ここは絵の中であるがゆえ、今できることをやりながら少しずつ解決していくほかなかろう。
そうだ! サガ、これを見たことがあるか?
うーむ、それが何かはわからぬが……なぜか拙僧は、これをどこかで見たことがあるような気が――
本当か!?
少し時間を頂けぬか……うむ――この模様、材質……一体いつどこで見かけたのか……
――――!
……あれぇ?
お茶に光が反射してる……
どうした?
おお!? 何が起きたんです? 皆さん急に立ち上がって。
……夜が!
夜が明けた……?
ガアッ!
こ、こいつら何でこんなところまで来るんだ!? ここらは昼間なのにどういうことだ!
あ、あれは、空が……なぜ太陽が向こうに行ってしまったんだ? 鴻洞山に何が起こった!?
ガアッ!
うわああ! こいつら、ひっ、人を食べてるぞ――! 逃げろっ、逃げるんだ!
逝く者は斯くの如きか、日は昇りて月は落つ、此れ当然の理なり。
ふっ。
……平穏を掻き乱す……それがあいつの狙いか?
……ど、どうなってるんだ?
どうして太陽が……?
――太陽はもともとああやって動くものでしょ~、ラヴァちゃん。
ん? いや、もちろんそんなことは知っている。ただどうしていきなり正常に戻ったのか――
いやそうだ、これが普通なんだ……アタシは何を焦ってるんだ。
恩人様方、何だか町の方向が騒がしいようですが?
助けてくれ、誰か! 助け――
ガアッ!
大丈夫か!?
だ、大丈夫です。ここにいたんですね。本当に良かった! しかし大変です。化け物たちが突然太陽を恐れなくなったんです!
今、町中であいつらが、ひ、ひ、ひ……人を食べてるんです!