潮汐の下 SV-2・戦闘後
歌い手
……こ、こんにちは。
うん? もう一人いたのね。
い、痛いことはしないでください……私はちゃんとわかってます。あなたが悪い人じゃないってこと。
どうやら、あなたは話が通じるみたいね。
だって、あなたはベンチを追いかけてここに来ただけですもん。
うぅ……あう~……きわく、きわく……
ええ。この子が走っていったから、ついてきたの。
あなたは、私たちに悪意なんて持ってない……そうですよね。
この子が私の物を返してくれたらね。
えっ?
ベ、ベンチ……何を盗ったの?
ぴかぴか……ぴかぴか……かたい……いたい……あぅ……
た、食べちゃダメ! ほら、早くペッしなさい!
ごめんなさい。この子ったら見たことがない物を見ると、つい欲しくなっちゃうんです。人の物を取ったらいけないって、まだわかってないみたいで。これ、お返しします。
どうも。
あっ、よだれまみれ……すみません、手を汚しちゃった……
いいわ。戻ってきたから。
ここでは知らない顔を見ることなんてほとんどないんです。あなたは外から来たんですか?
そうね。イベリアの他の都市から。
よその人に会うなんて……これ、すっごく珍しいことですよ。
それに、あなたの服……すっごく変わってますね。私、そんな生地初めて見ました。外の人って、皆そういう格好なんですか?
さすらいの歌い手は、こういう服を着るものなの。
さすらいの……歌い手? さっき、トタンたちにもそう言っていましたよね。それって何ですか?
当てもなく旅をしては、時々立ち止まって、ハープを片手に歌を歌う……私みたいな人をそう呼ぶの。
そのケースには何が入ってるんですか?
サックスよ。
サックス……?
楽器よ。
その……本当にさすらいの歌い手なんですか?
ええ。
えっと……
なら、あなたは何をしに来たんですか? 歌を歌いに来たとか?
人探しよ。
誰を探してるんですか? その人もさすらいの歌い手ですか?
そうよ。彼女は私の仲間。私たちは僚友なの。
その人も、サルヴィエントに?
ええ。彼女を見なかった?
どんな格好の人なのか、まだ教えてもらってないんですけど……まあいっか。さっき言った通りですよ。あなたみたいな人は、他に見たことありません。
そう。それなら、他の人に聞いてみるわ。案内してくれる?
案内……私がですか? ……あの罠、私が作ったんですよ? あなたにはバレちゃってると思ったんですけど。
別に、どうでもいいわ。
怒らないんですか? 私、痛い目に遭わされると思ってました。
行きましょう。時間が惜しいから。
は、はい……
……
きゃっ!
あいたた……ど、どうしたんですか、急に止まったりして……ケースにぶつかっちゃいましたよ。
言い忘れてたわ。私のケースには、あなたの役に立つ物は入ってないから。
けど、あなたの手伝いで無事に彼女が見つかったら、お礼に何だってあげるわ。これ以外ならね。
あっ、すみません。ちょっと気になっただけで……そんなにわかりやすかったですか?
あなたの罠と同じくらいね。
わあ……歌い手さんって器用なだけじゃなくて、すっごく目が利くんですね。
九十八……
九十九……
……
聞きたいことがある時、ここではどう尋ねたらいいのかしら?
えっ? 外ではどうしてたんですか?
このケースの……
……中に入ってるものを使うのよ。
え? サ……サックス、でしたっけ? 楽器を使うんですか?
……ええ。
ダーッ、ドンッ、パパッてね。
……か、変わった音がする楽器なんですね。
普通ならこれですぐに口を開くわ。
それでも話さない相手には、もう一度味わってもらうけど。
ちょっとここでは、うまくいかないかも……なのれす。
ええ、そうかもね。
そうでなきゃ……
さっきの二人も、話してたはずだもの。
トタンたちのことですか? 多分、楽器なんて知らないんだと思いますよ。ここの人っていつも自分のことばっかりで、他のことを気に掛けたりしませんから。
それに、なんていうか……あの人たちって、滅多にお喋りもしないんです。だから知ってたとしても、なんて答えたらいいのかわからないんだと思います。
あなたは私を気に掛けてくれるみたいだけど。
……それは多分、私がおかしいからです。皆とちょっと違う、っていうか。
話も上手だものね。
本当ですか? 嬉しいです。ペトラおばあさんが教えてくれたお陰ですね。
あっ、そうだ。他の人にも聞いてみるんですよね? それじゃ、ペトラおばあさんの所に案内しますよ。おばあさんはここで一番のお年寄りで、なんでも知ってるんです。
そう。それじゃ、お願い。
はい! こっちですよ、歌い手さん。
……こっちでいいの?
九十九、九十九……
九十九。
あっ、あの人たちのことは気にしないでください。ただ立ってるだけですから。少し狭い道ですけど、ちょっとぶつかるくらいなら彼らも気にしませんよ。だよね、机の脚?
……
……
え……? 頭の上を飛び越えちゃった!? い、今のどうやったんですか? 誰にもぶつからずに進めちゃうなんて……
外の人は、皆そんなことができちゃうんですか? すごいなあ……
あっ、着きましたよ!
ペトラおばあさん! ペートーラーおばあさーん!
あんまり大声出さないでおくれ、私の鼓膜を破る気かい?
えへへ、おばあさん、今日は元気そうですね! また――えっと、ひなたぼっこしてたんですか?
ひなたなんて、どこにあるってんだい。もう何年も待ってるが、太陽なんて長いこと拝んでないよ。なのに、アニタ。あんたときたらいつも一大事みたいに走り回ってるね。今日は何の騒ぎだい?
いや……そもそもこんな場所で、今更何が起きるっていうんだか。
ペトラおばあさん。今日は私の用事じゃないんです。おばあさんに会いたいって人がいて……
――あれ、どこ行っちゃったんだろ?
……
あっ、いたいた。どうしてこっちに来たんですか?
視線を……感じたの。
ん? 視線? 路地には誰もいないみたいですけど……
うまく隠れてるわね。ちょっと詰めが甘いけど。
どうしてそんな怖い顔してるんですか? さすらいの歌い手さんなんですよね? 人前でよく歌うんだったら、人から見られるのも慣れっこじゃないんですか?
……そうね。
だったら、もう行きましょう! ペトラおばあさん、今日は元気なんです。きっと何か聞かせてくれるかも。
空をも染めた夕焼けが、私のドレスを赤く染め……愛しい人よ、私を連れてあの青い海を渡っておくれ……
ペトラおばあさん、何してるんですか?
アニタ、まったくあんたときたら、鬱陶しい子だね! 踊ってるんだよ、見えなかったのかい?
それに乙女が踊ってる時、邪魔をするのは野暮ってもんだ。どれ、あんたも一緒に踊るかい?
えっと……遠慮しておきます。
あの、もっとゆっくり回らないと、また目が回っちゃいますよ。
目が回るだって? ばかばかしい! 私ゃ一度に十回だって回れるんだよ、街中の人が拍手喝采さ!
いいかい、私は……ごほ、ごほごほっ……
ちょっと休みましょう、おばあさん。ほら、歌い手さんが来てるんですよ。おばあさんに聞きたいことがあるんですって。
歌い手? そんなもんが来るなんざ、数十年ぶりじゃないか。
はぁ、なんだってまだ明るいんだい? さっさと夜になりゃ、バーで誰かしらハープを弾いてるもんなんだが……あんた、ハープは弾けるんだろうね?
私たちは広場で踊るんだ。そう、この場所でね……何度でも、何度でも回っていられるさ。それとね、私は赤いドレスを持ってるんだよ。お嬢さんや、あんたが着てるのよりずっと綺麗なやつさ。
昔は私と踊りたがる男は大勢いたもんさ。その中でも、私はマニュエルが一番好きだった。若い頃は一番ハンサムだったよ。
そうね、ペトラおばあさん。私にも何度もその話をしてくれましたよね。
……ん? なんだって? 誰が私を訪ねに来たって?
ああ、あんたか。その赤いドレスは、本当に綺麗だね。
あか……赤……や、やめとくれ……赤なんていらないよ!
そうだ……海! 海は生きているんだ!
いけない、また始まった……
……突然押し寄せてきて、皆死んじまった! あんなに……あんなにたくさんの人がいたのに……しかも生き延びた連中には、食べる物が一つもなかった……
マニュエルはね……最初は私を外に連れ出すと言ったんだ。けど急に考えを変えちまった。出て行った連中は誰一人帰って来ない、皆外で死んだに違いない、とか言いだしてね。
その話も、前に聞きましたよ。
マニュエルは……私を守ると言った。約束もした――私を守ると、そう言ったんだよ! でも奴は私を騙したいだけだった――
私が隠していた食べ物を全部騙し取るつもりだったんだ。だから……わ、私は騙された振りをして、母親の形見を……銀の花瓶を手に取って――ごほっ、げほっ、ごほごほ――
赤……私は、赤が好き……いや……いやだ……
ペトラおばあさん、ペトラおばあさん! もうやめてください。その話をするたび、苦しそうにするんですから。
今日は他のことを話しましょう。ほら、おばあさんに聞きたいことがあるって人を連れて来たんです。
聞きたいこと? 誰が何を聞きたいっていうんだい?
この人ですよ、外からやってきたさすらいの歌い手さんです。
探してる人のこと、早く聞いちゃってください! ペトラおばあさんに答える元気があるうちに。
こんにちは――
誰だい? あんた……
さすらいの歌い手よ。人を探してるの。私も、その彼女も、街の外からやってきたんだけど……
外……? 外だって!? 嘘をつくんじゃないよ!
外から人なんて来るわけないだろう。よそ者はとっくに私らを見捨てたんだから……
さては私の物を奪うつもりだね? 食料、服、果ては私の血肉まで貪り食らう――
化け物! この化け物め!
何を……
おばあさん、ここには化け物なんていません。彼女はただの歌い手さんですよ。
あか……赤い、ドレス……あぁ、見つけた。ここで……歌が、聞こえる……マニュエルが、待っているんだ。行かないと……もう、行かないと……
……愛しい人よ、私のドレスを赤く染め……赤く、染め……
はぁ……
ごめんなさい。今日はかなり興奮してるみたいです。あなたを連れてくるべきじゃなかったのかも……
とりあえず……おばあさんを部屋の中に連れて行きますね。歌い手さん、少し待っててください。
……もしかして、まだ視線を感じるんですか?
大丈夫よ。
今のところ、大した面倒ごとじゃないわ。牙を剥かない小さな獣みたいなものね。だから、気にしないで。
は、はい……えっと、その……ペトラおばあさんは……
ハープも踊りも知っていた。彼女は外の人とそう変わらないわね。
そうですか。おばあさんが言ってること、大抵よくわからないんですけど……そういうことなら、当然なのれす。
私を化け物だって。
悪気があって言ったわけではないんです。おばあさんは、その……いつも夢の中にいるみたいで……だから、ありもしないものが見えちゃうみたいなんです。
……皆、そんなものよ。
おばあさんは、病気なんです。なので、あなたの質問には答えられそうにないですね……
残念なことにね。
で、でも安心してください、歌い手さん。
私が住んでる場所には、他にも兄弟がいますから。あとで聞いてみましょう。話してくれるかは、わかりませんけど……時々、私でもお話するのがすごく難しかったりするのれすよね。
「兄弟」……?
はい。血は繋がってませんけど、私にはたくさんの兄弟や姉妹がいるんですよ。街の人全員が兄弟っていうルールになってるんです。
あなたもイベリア人のようですけど、こういう呼び方はしないのですか?
……
あなたたちは、それを信じてるのね。
当然なのれす。私が小さかった頃、ペトラおばあさんが口にしていた暗黒の時代に……私たちは過ちを犯してしまったので……
当時は、皆が自分のことだけを考えていて、家に隠れて籠もりきりで……話だってしませんでした。そのせいで、缶詰を掘り出した時は、たまに……ええと、ケンカをしてましたし。
でも、分け合うことを学び始めてからは、徐々に状況は良くなっていき……今では一緒に暮らしたり、時々お喋りができるようになったのれす。
――「私たちは生きたい。だからこそ互いをより深く愛するのだ。愛が私たちを強く結びつけてくれる。奪ってはいけない。争ってはいけない。」
「己自身を強健にせよ。一族すべてを強健にせよ。素晴らしい生活を送るために。」
聞いたことがあるわ。
宣教師さんは、外の人たちもこれを信じていると言ってました。
あっ、そうそう! これは全部、宣教師さんが私たちに教えてくれたことなんです! いつもたくさんお話してくれるんですよね……
何言ってるかはよくわからないんですけど。さっきの以外で私が覚えてることといえば、皆を兄弟として扱って優しくするように、ってお話だけですし。でも、これってためになりますよね。
宣教師がいるの?
はい。あなたと同じで、彼も外から来た人なんです。もう何年も前のことですけどね。
宣教師さんが来てからです……私たちが、いい方に変わっていったのは。あの人も、私たちの兄弟なんですよ。
その人はいつも一人なの? それとも、誰かと一緒にいるとか?
大体一人ですよ。あ、トタンたちから聞いたんですけど、あとから一人増えたんですって。
どんな人?
あんまり見たことないんですよね。彼女、滅多に姿を見せなくて。たまに宣教師さんが私たちに話をする時、宣教師さんの後ろに立ってますけど……遠くから、ちらっと見たことあるくらいです。
そう……
ど、どうしたんですか? 急に歩き出したりして……
教会へ行くの。
行き方、知ってるんですか?
どこにあるかってことくらい、見ればわかるわ。
ちょっとわかりづらい道なのれすよ? ここからずーっと海辺の方へ行くんです。私が案内してあげますよ。
あれ? なんで止まっちゃうんですか?
……
まさかついてくるなんてね。
えっと……言ってることが、よくわからないんですが……
さっきの小さな獣のことよ。まだつきまとってくるみたい。
ん? 獣って動物のことですよね……? でしたら、ここにはいませんよ。とっくにいなくなっちゃいましたから!
……まあ、大したことないわ。行きましょう。
はい、歌い手さん。
見えますか? あそこが教会です。
でも、私たちは普段、こんな時間に教会には行かないんですよね。
入れるなら問題ないわ。
中に入ることくらい、誰でも皆できますよ。教会の扉は、信心のあるすべての人にいつでも開かれているって、宣教師さんが言ってましたから。でも……あなたは人を探しに行きたいんですよね?
だったら、その……宣教師さんは普段、この時間は教会にはいませんよ。
いつならいるの?
実は一定の期間ごとに、私たちの元にやってきて、一人一人と心をこめてお話してくれる時間があるんです。
聞きたいことがあれば、その時に尋ねてみるといいと思います。どんな質問をしても、宣教師さんは嫌がったりしませんから。
それに宣教師さんが来てくれる日は、次の日の太陽が昇るまでずっと教会にいてくれるんですよ。
あっ、そうだ! 宣教師さんならきっと人探しも手伝ってくれるはずです! 私たちよりもたくさんのことを知ってますし!
……一定の期間ってどれくらいなのかしら?
うーん、最近見かけてないんですよね。私は他の人たちみたいに日にちを数えてないですし……でも、多分あと数日くらいで来ると思いますよ? 皆、もうすぐ食べ物がなくなっちゃいますから。
そう。わかったわ。
不思議ですね。あなたが「わかった」って言う時、なんだか心からの返事じゃないように聞こえます。
でも、そう思うのは良くないですよね。人を疑っちゃいけないって宣教師さんも言ってましたし。私こんなだから、お前は質問ばかりだ、そんなのは何の役にも立たないって、いつも言われるんです。
……それも宣教師が言ったの?
あははっ、宣教師さんはそんなこと言わないのれす。第一、お話が長いからいっつも私は途中で逃げ出しちゃうのれすよ。
質問ばかりだって言うのはトタンたちですよ。皆、私のこと鬱陶しいと思ってるみたいで……私だっていつもお喋りなわけじゃないのに。ここの人たちが静かすぎるだけですよ。
誰も何も話してくれない時なんか、とっても退屈で……もう、一人でずっとお喋りするしかないんです。
ペトラおばあさんしか私のお喋りに付き合ってくれないんです。でも今はあなたがお喋りしてくれるから……それがとっても嬉しくって。あっ、でも……あなたも鬱陶しいと感じてたら、すみません。
……
私が普段いる場所には、あなたよりもずっとお喋りな人がたくさんいるわ。
それじゃ、きっと素敵な場所なんですね!
……そうかもね。
歌い手さんの所には、踊りを踊る人もいますか? ペトラおばあさんが言ってたみたいに、広場でダンスパーティーをやるんでしょうか?
ええ、時々。
それじゃ、どうしてあなたは踊らないんですか? ハープを持っているのに……
ペトラおばあさんが言ってました。ダンスパーティーは皆で歌ったり踊ったりするもので、歌い手はそれが得意なんだって。
……私の踊りを、あなたが見ることはないでしょうね。
どうしてですか?
こんな時、こんなところで、あなたみたいな人に見せるものじゃないから。
あなたってすっごく変ですよね、私よりも変ですよ。あなたの家は一体どこにあるんですか? あなたの所の人って……皆あなたみたいに変な人なんですか?
そうね……
私が普段いる場所は、私の家じゃないの。
私の家がどこなのかは、私にもわからない。もうなくなってしまったから。
なあんだ。そんなの、大したことありませんよ。私の家もそうですから。何年も前の強風で、潰れて壊れちゃいました。お母さんはその時家にいて……だから、お母さんもいなくなっちゃって。
……
でも、それも大したことじゃありません。皆そうですから。家がなくなったなら、誰も住んでない場所を探してそこに住んだらいいだけです。ここは、家ならたくさんあるのれすから。
そうだ、踊りたくないなら、代わりに歌を歌ってくれませんか?
他の人が歌ってるの、聞いたことないんです。
……考えておくわ。
やったあ!
うーん、たくさん歩いたから、お腹すいちゃいましたね。
あなたもきっとお腹すいてますよね? お腹すいたままじゃ、歌なんて歌えないですよね?
それじゃ、食べる物を探しに行きましょう。
ちょっと……
あっ、走るの速すぎました? すみません、あなたがまだこの辺の道を知らないってこと、すっかり忘れてました。
……そうだ! 私、アニタっていいます! これからは名前で呼んでください。そうすれば、あなたが追いつけない時も待ってあげられますから。