潮汐の下 SV-3・戦闘前
異邦人
ご覧なさい。まるで海に迷える鱗獣のように、あなたは未だ彷徨い続けている。
……
あなたの目はこう問いかけていますね。彼女をどこへ連れて行ったのか。我々が彼女に何をもたらすのか、と。しかし、あなたには我らの集会に参加する資格がありません。
ところで、姉妹の愛は取り戻せましたか? 古い友人の境遇に、あなたの心は引き裂かれましたか? 不公平だと思いましたか? すべてに怒りを覚えましたか?
目に見えぬものをお探しのようね。
そう受け取ることもできましょう。
もし私が彼女を傷つけるつもりだと思っているのでしたら、答えは否です。私は彼女の力になりたいだけなのですよ。
彼女の――いいえ、あなたたちの苦痛がどこから来るのかを理解して初めて救済することができる。そうでしょう?
あなたが自らの意志で信者となり、真の海と一つになりたいと望んだように……この仕事を終えた時、その穢れし本質は浄化されることでしょう。嗚呼、これぞ慈悲深き海の恩恵です。
そして、いずれはあなたの旧友たちも恩恵を授かることでしょう。彼女たちがあなたを見習い、その狭き視野を――敵対していた時に抱いていた思考を捨てさえすれば、ね。
再会こそが最初の歩みとなり、私があなたたちを理解することが次の歩みとなる。そうすれば最後には、あなたたちも私を理解できるようになることでしょう。
……
その無駄話を減らしてくださったら、より打ち解けられそうなのですけれど。
では、お喋りはこの辺りにして……吉報を一つ。あなたのもう一人の旧友が辿り着いたようですよ。
スカジのことを仰ってますの?
ここには、いないようですけれど。
私の招待がなければ、ここに入ることはできませんからね。
ということは、彼女がこの街に訪れたことを察知したと……?
おや、意外でしたか? 私はこの都市すべての音を聞き取ることができるのですよ。
神は私の行いを全てお認めになり、そのための力を、そしてより豊かな命すらも与えてくださった。今や私の知覚や心は、肉体という名の枷から解放されたのです。
私は完璧へと近付いている。嫉妬をなさるのも当然です。
ふっ。
さて、話を戻しましょう。あなたの旧友ですが――予想よりも早い到着でしたね。
「アビサルハンターの血は繋がっている」……
彼女は、何が待ち受けているのかも知らず……あなたがもう一人の旧友を連れ去ったというだけで、この街まで追ってきたのです。少しも休むことなく、ね。実に素晴らしい友情です。
果たして今のあなたを、彼女はご存知なのでしょうか? そして裏切り者を前にした時、彼女はどんな決断を下すのでしょう? アビサルハンターの血の繋がり――僚友の情か、それとも断罪か。
楽しみですね。
……もう行きますわ。ごきげんよう。
急いで彼女を探す必要はありません。あなたは十分に役目を果たしました。一人をあるべき場所へと連れ帰り、もう一人をこの街へ呼び寄せたのですから。
あのお方もご満足でしょう。
「あのお方」?
あなたは知らずともいいことです。
今は待ちましょう。そして時が来たら、あなたの旧友を我々の元へ招いてください。
彼女が来るとは限りませんわよ。
来ますとも。自ら、私を訪ねに……ね。
ただいまー! 戻ってきたよ!
私たち、北側の一番いい家に住んでるんですよ。ほら見て、この扉閉まるんです! すごいでしょう! 扉がちゃんと閉まる家は、雨の日もへっちゃらなんですよ。
近くに二人……いるわね。
ああ、あの二人ですか? いつもあそこにいるんです。
百三十、百三十一、百三十二……
ハーイ、レンガ! 調子はどう?
……
一、二、三……
ご、ごめんね!
は、初めからになっちゃった……可哀想なことしました。彼、毎日ここに座って、通りにレンガが何個あるのか数えてるんです。ここだけの話、結果は日替わりなんですけどね。
あっ、あの人は石柱です。通りにある柱の周りを散歩するのが好きなんですよ。雨の日は出歩きませんけどね。もう若くないから、雨に濡れると足が痛むんですって。
彼らのことはあんまり気にしないでください。向こうも、あなたのこと気にしてませんから。私を気にしないのとおんなじで。
さあ、上がってください、歌い手さん。私たちの家へようこそ!
……
……
ハーイ、トタン。それにほこりも。起きてたんだね!
……!
痛い……
おい、木枠。そのよそ者、連れて来たのか。
だって、悪い人じゃないもん。
だが、よそ者だ。
ベンチも彼女のこと気に入ってるんだから別にいいでしょ。ね、ベンチ?
うぅ……あう~……
あっ、こら! 噛んじゃダメ! 歌い手さんのスカートが破けちゃうでしょ!
はぁ……
……これぐらいじゃ破けないわよ。
でもよだれまみれにしたら勿体ないですよ、せっかく綺麗なのに。
あう~? あぅあう……
この子ったら、本当にあなたが大好きみたいです。
……
ほら、ベンチも歌い手さんにいてほしいって。
お前、何か企んでいるな。俺にはわかっているぞ。
ええっ?
いい結果など、期待するな。
私は別に、何も企んでなんて……
……勝手にしろ。
だがルールは、破るな。
お前も、あいつもだ。
俺は見ているからな。
……行くぞ。
ふぅ……やっと行った。
歌い手さん、怖がらなくても大丈夫ですよ。トタンはああいう人なんです。見た目はちょっと怖いですけど、何もしませんから。
怖がる……?
あっ、そうですよね! あなたが怖がるわけありませんでしたね。あなたは彼らよりもずっとすごい人ですから。
でももし本当に何かしてきたとしても、私だって怖がったりしませんよ。
そう。
はぁ……
どうしたの、ため息なんてついて。
この缶、もう空っぽなんです。お皿にも何も乗ってないし……
でも……私の記憶が正しければ、ベッドの下に食べ物が……
……これがベッド?
そうですよ。あっ、もしかして変でしょうか? あなたのベッドは鉄でできてないんですか?
そんなの、気にしたことないわ。
家によっては、木のベッドもありますよ。木は便利なのれす。燃やせば部屋が明るく、暖かくなりますし。病気の人にとって、ここの冬はすごく厳しいものですから……
ところで、これ見てください。私の宝箱なんです。朝起きた時、奥の方に入れておいたんですよ。
海草をどかしてもらえますか? そう、そのからからに乾いてるやつを……あっ、ポイってしちゃダメですって! 食べ物にはなりませんけど、ベッドに敷いて使うんですから。
たくさんあるのね。
はい。使える物は全部ここに隠してるんです。
じゃじゃーん! 見てください、今私が縫ってる服です! 最近研いだ貝殻針が、ここ数年で一番のできばえで……
でも、布が足りないんですよね。街の南まで行って探さないと……もしかしたら、もっと奥の方にはいくらか残ってるかもしれませんし。
もうすぐ寒くなりますから、早く仕上げないといけないんです。
……
ダ、ダメだよ、ベンチ。この服は触っちゃダメ! これはペトラおばあさんにあげるの。咳がどんどんひどくなってるんだから……
……
これもダメ! 放して、ベンチ!
きわく。
何度も言ったじゃない。私は「木枠」じゃなくて「額縁」!
それに、これは食べ物じゃないの。あげても食べられないからね!
木枠……額縁?
皆、私をそう呼ぶんです。聞いてたでしょう?
アニタじゃないの?
アニタって名前は、自分で付けたんです……もともと、おばあさんが聞かせてくれたお話に出てくる、女の子の名前で。あなたみたいに、歌が上手な子なんですよ。木枠よりいい名前でしょう?
ここの人たちのほとんどは、名前を持ってないんです。だから、皆適当に呼んでます。いつもレンガを数えているから、レンガ。トタンの柵で囲まれた家に住んでいるから、トタン。
ペトラおばあさんが、木枠の下から私を見つけたので、私は木枠。でも、皆が木枠って呼んでるものは本来「額縁」だったものなんです。だからあれは「額縁」だよって何度も言ってるんですけど……
あなた、母親がいたと言ったけど。
ええ。お母さんは私を誰の手にも渡さずに守ってくれました。お母さんはすっごく勇敢な人なんです。私が生まれた頃、ここに子供はいませんでしたし、生き延びることもできなかったんですって。
当時はペトラおばあさんに逆らえる人なんていなかったそうで……だから、おばあさんが私に食べ物をくれてたんです。今は具合が良くありませんけど、おばあさんは街で一番すごい人なのれす。
そうなの……
トタンだって、おばあさんを怖がってるんですから。
そう。
今はだいぶマシな生活になりました。宣教師さんがどうやって生きていくかを教えてくれたので。ベンチや、あの子たちを見てください。そのうち、ここもきっと賑やかな街になると思うんです。
あぅ……あう~……
こら、勝手に私の物を触らないの。それさえやめられたら、あなたはすっごくいい子なんだよ。ね、ベンチ。
他の物なら、あげちゃってもいいんですけど……夜寝る前、この宝箱はちゃんと隠しておくようにしてます。誰にも見つからないように。
本当は物を隠すのはいけないことなんですけど……ここには、自分の物と他人の物の区別がないので。歌い手さん、このことは誰にも言いませんよね? あなたは私の物に興味なんてなさそうだし……
私を信用するの?
あなたはお客さんですから。ペトラおばあさんが言ってました。お客さんはちゃんとおもてなししないとダメだって。
……やっぱりありました! ほら、まだ鱗獣が残ってましたよ。
……この臭い……
まだ半月前のですから、結構新鮮なのれす。
半分はベンチにあげようっと……おいでベンチ、鱗獣だよ!
あう~、あむ、あむ……
もう半分はあなたのです。食べ終わったら骨は残しておいてくださいね。それでスープを作りますから。
食べ物くらい、自分で見つけてくるわよ。
でも、まだ「その時」じゃないんですよ! 今行っても、何にも見つかりませんって。
それは、やってみればわかることよ。
えっ?
言ってる傍からどこかに行っちゃうなんて……歌い手さんって本当に変な人!
……まだ、つけてきてるのね。
海岸だ。あいつが海岸に行った。
そうだな、トタン。お前の考え、正しかった。あいつは、海に入ろうとしてる。海の中、行くつもりだ。
まだ、その時ではないのに。
宣教師が言っていた。百回、潮が満ち引きしたら、海に入ることを許される、と。
トタン、俺たちは行けない。海岸に行くこと、許されない。
……そんなことは、言っても仕方ない。俺たちが止めなければ。
止める? あいつに、勝てるのか?
宣教師が言っていた。百回。百回待たないと、行ってはならない。まだ九十九回だ。
あいつ、何も得られない。今日の海岸、何もない。
それなら、あいつは……何を探しているんだ?
トタン、ここは寒い。腹が減った。俺たち、行ってはいけない。お前も、気にするな。
海には、何があるんだ?
知らない。
知っていたとして、何ができる?
……知らない。トタン、お前が言うこと、わからない。俺には、わからない。
これまで、俺たちが行った場所……一番遠かったのは、どこだ?
西だ。ずっと前のことだ。あの時、俺たちの背は……まだ、これくらいだった。街で、食べ物を拾えた頃だ。
境界線。……いつもは使わない言葉だ。俺たちは見た。この街の一番端を。
それはお前だ、トタン。俺たちではない。
俺はあの時、腹が減って、倒れた。
もう少し行ってみようと、お前は言った。運託しだと。
……運試しだ。
まったく……お前は、いつまで経っても上手く話せるようにならないな。宣教師が、お前には何年も教えているのに。少しも上手くならない。
へへっ……トタン、お前がいる。お前が、わかってくれる。
お前はあの時も、そう言っていたな。
お前はいつも、俺を信じてくれる。お前は、俺にお前の缶を持たせてくれた。俺は、それからまた一日歩いた。
そして、トタン。お前は帰ってきた。
ああ。俺は帰ってきた。
帰ってきたお前は、何日も、何も食べなかった。俺は、お前が飢え死にしたいのかと思った。
それは、俺も考えた。だが、飢え死にして、何の意味がある?
どうせ、皆死ぬ。そう遠くはない。
あの時もお前は、そう言ったな。俺は驚いた。俺は、お前の言ってることが、わからなかった。
その後……宣教師が来た。俺はようやく変化を感じた。俺たちは、皆変わった。
宣教師……素晴らしい生活。俺たちも、持つことができる。宣教師はそう言っていた。これは、本当だ。本当のことだ。
ああ、本当だ。なぜなら……それが、真理だからだ。宣教師が、俺たちに見せてくれた……
宣教師のお陰だ。俺は生き延びた。俺たちは生き延びた……これでいい。
誰も、あの線を越えられない。
あの線とは、この、海の線か?
あらゆる線だ。木枠が作った、罠と同じ。外から、誰かが来ないように。すべてを、止める線だ。
俺たちも、外へは出ない。これが一番だ。
トタン……お前の足、水につきそうだ!
水……そうだ。俺は行かない。
線を越えても……越えたとしても、そこにはきっと、何もない。
ふぅ……トタン、やっと立ち止まったか。驚いたぞ。
あまり、たくさん質問するな。お前は、質問してばかりだ。木枠と変わらない。あいつは、変だ。宣教師も、木枠は間違っている、と言っていた。そうだろう?
質問は……俺たちを、助けてくれない。
意味があるのは、答えだけだ。
お前はすごいな、トタン。宣教師が言った言葉、よく覚えている。
……
見ろ。あいつ、よそ者が、海岸を歩き続けている。
トタン、どこへ行く? ついていくのか? ダメだ、いけない。俺たちは、あいつについていっては、ダメだ!
俺たちでは、あいつに勝てない。俺でもわかる。俺たちでは、あいつを追い出せない。
あいつが、戻ってこれなくなるだろう。
それなら……それは、いいことだ。
俺は、あいつの持ってる、大きな箱が欲しい。きっと、食べ物がたくさんある。
箱はない。あいつが持って行った。
あるのは……これだけだ。あいつが岩の上に置いた。何かは、わからない。
あいつ、ずっと持っていた。きっと、いい物だろう。
一口……噛んでみていいか、トタン? すごく、腹が減った。
少し待て。まず、触ってみてからだ……
こ、これは何だ? こんな音、聞いたことがない。
これは……この糸から、音がするのか?
やめてくれ、トタン。その音を聞くと、震え、止まらない。ほしいなら、お前にやる。
こんな物、何の意味もない。
役立たずだ。捨ててしまえ。地の上で、朽ちていけばいい。
私についてきてたのは、あなたたち以外の誰かだと思ってたわ。
も、戻ってきた! そんな……ありえない。この時間、海岸に行った者、戻ってこない。
お前、海に行きたいのか。
ちょっと散歩してただけよ。
海には、何がある?
何もないわ。
そんなわけが、ないだろう。
だんだん、お前まで変になっているぞ、トタン。まだそんな、よくわからない質問、しているのか。俺たちは、あいつを止めに来た。そうでは、ないのか?
今、あいつは戻ろうとしている。俺たちも、戻ろう。
お前は、すべて見た。お前は、知っている。
トタン、震えているぞ。病気になったのか?
……
近付かないで。
近付いたら、どうする? さっきみたいに、殴り倒すのか?
……
海には何かある、そうだろ?
動かないで。
う、うわああっ――!?
ほこり!
石を、投げたのか……あいつ、なんて速く動くんだ。
今のは、俺の声か? トタン、俺は叫んだぞ。俺の心臓、すごくうるさい。俺も、病気になったのか?
お前の頭が、割れてしまうかと思った。砕かれた貝のように、中から何か零れ出すかと……
そうなったら、俺は死ぬのか?
今度試してみればわかる。今、潰れたのは別のものだ……こんなものは、見たことがない。
そいつ……どうして、まだ動いているんだ!?
逃げなさい。街に戻るの、早く。
――それと、ハープは置いていって。