潮汐の下 SV-4・戦闘前
海洋
……
上官!
下がれ。お前では相手にならない。
ですが、私は……
下がれ。
は、はい!
あなた、彼女よりずっと強そうね。
異邦人よ。サルヴィエントに足を踏み入れるべきではなかったな。
言うのが遅いのよ。もう入っちゃったわ。
法律に違反すれば、代償を支払うことになる。
法律なんて、いちいち確かめていられないんだけど。
では、お前をここへ留まらせ、その身に叩き込むとしよう。
……あなたとは戦いたくない。だけど……
ふんっ。邪悪なエーギルめ、怖いのね! ま、それも当然だわ! 上官からは絶対に逃げられないもの。
どうしても戦わなければならないっていうなら――
(エーギル語)……あなたを倒すわ。
速い……! 私を相手にした時より、ずっと!
こんな速度で動かれたら、さっきの一撃があいつのスカートを貫くことすらなかったはず……一体どれほどの実力を秘めているの!?
師匠、それにあいつも……攻撃にしろ回避にしろ、みるみる速度を上げている……私にはもう捉えられそうにないわ。
こんなにも……こんなにも、実力の差があるなんて……!
いいえ、圧倒されてはダメ。あれはエーギルなのだから。そして私は……私は審問官なのよ! エーギルなんかに負けてはいられないわ。
そういえばあのエーギル、ケースを武器にしていたわね……でも、あんなに硬いなんておかしいわ! 一体何でできてるのかしら?
何にせよ、師匠はまだハンドキャノンを抜いていない……あれをお使いになれば、一瞬であいつを仕留められるはず。まあ、そうなればこの通りもただでは済まないでしょうけど……
それにしても……あれ、本当にエーギル? 絶対におかしいわ。あいつの姿、これまで見てきた怪物たちとは全然違うもの……
使っているのは、アーツ……? ダメ、上手く感じ取れない。私たちの灯りを以てしても、抑制できない力だなんて……
――あのエーギル、どれだけ秘密を抱えてるのよ……
……
上官! やはり上官の勝利でしたか。まあ、あなたに敵う者などいるわけがないことはわかりきっていましたが……
それで、あのエーギルはどこに?
逃げられた。
えっ? そんな……あなたから逃れるだなんて、一体どんな手を?
彼女は傷を負っている。そう遠くへは逃げられん。
では、私が彼女を追います――
お前では捕らえられない。
で、ですが……! 決して、あんな奴に我が物顔で海岸を歩かせるわけにはいきません!
方角から見て、彼女は住民たちのもとへ向かったはずです。彼らに紛れて身を隠すつもりなのでしょう。住民の中には、彼女に手を貸している者がいるようです。一軒一軒しらみつぶしに捜索します。
……それが正しいと信じるならば、行くがいい。
はい――
……
上官。この都市に異常をもたらしたのは、彼女なのでしょうか?
すべてを見定めたいのなら、己の目で確かめろ。街へ向かわせたのはそのためだ……お前は何を見た?
この都市の住民は異常です。誰も彼もが夢心地で、起きているのに意識がないかのようで。何かを得るために行動するわけでもなく、食事の様子も、ただ食べ物を口に運んでいるだけというか……
その上、彼らは今まさに、海へと向かっているのです。なのに、彼らはそれを自殺とは思っていないようで……
止めたのか?
はい。明らかに間違っていますから。
我々が最も注意を払うべきものは、結果だ。お前が是正することで正しい結果をもたらすことができると思うのなら、行動しろ。
正しい結果……
そうでないのなら、選び取るべきは何であるかを見定めろ。
審問官――お前はその双眸、そしてその剣を以て、このイベリアに於ける最大の脅威に目を光らせなければならない。
はい、上官!
最大の脅威……海から現れる、あの怪物たち。
まさか、海へ向かう人々は、あの怪物と何か関係している……?
そうね、きっとそうだわ……
師匠が仰っていたもの。異常とは、往々にして単一的な現象ではないものだ、と。この恐ろしく奇怪な現象の一つ一つに、きっと繋がりがあるはずよ。
問題を解決したいのなら――まず、その所在を明らかにしろ。
わ、わかりました! 問題の所在……
――それは、闇に隠れてこの陰謀を企てたエーギルにあります!
奴らは海岸に潜み、法の隙間に身を隠す。そして都市の血肉を腐敗させ、市民の精神を揺さぶり、我らがイベリアの筋骨を蝕もうとしているのです。
奴らの陰謀によって、都市が絶望の淵へと引きずり込まれる前に――
なんとしても奴らを見つけ出し、排除しなくては!
歌い手さん……歌い手さん? ねえ、いるんでしょう?
……
ずっと探してたんですよ。ここならきっと、審問官にもわかりませんね。空き部屋がたっくさんありますから、夜は探すのが難しくなりますし。
……私、ちゃんとわかってますから。歌い手さん、私たちから離れていたいって……私たちが住んでる場所からできるだけ遠くにいたいって思ってるんですよね。
ここを見つけるのだって、そう簡単じゃありませんし……ふぅ……ここって海岸のすぐ近くなんですね。
聞こえているのは……波の音? こんなに大きいんですね……波だけじゃなくて、もう一つ聞こえているもの……あなたの息遣いも。
歌い手さん、ここで何をしてるんですか? 息が乱れてる、っていうか……ちょっと変ですよ。
――危険が迫ってるわ。あなたたちにね。
急に何言って……えっ、歌い手さん、ケガしてるんですか?
血が出てるの。早く行きなさい!
そう簡単には逃がさないわよ。
審問官!? も、もしかしてずっと私についてきてたの……? どうしよう、全然気付かなかった!
こほん……一般人に気付かれるわけないでしょう? もちろん、あんたなんか尾行しなくても、ここを見つける方法くらいいくらでもあるけどね!
またあなたなの……
あら、私が怖いのかしら?
さっきのは、そうね……認めるわ。ちょっとだけ油断してたから、危うく逃げられるところだったってね。
でも、もう油断なんてしない……エーギル、あんたを絶対に捕まえてやるんだから!
で、でも、歌い手さんはケガをしてて――
うん? あんた、この私の邪魔するどころか、その危険なエーギルなんかを庇うつもり? そんなことしたら、そいつと同じ犯罪者になるのよ?
わ、私は……
ふぅん、あんたは他の住民とは違うみたいね。少なくとも、あんたの目には恐れがある。
今のところ、あんたはまだ何の罪も犯してない。だからさっさと退きなさい! 私だってあんたには剣を向けたくないのよ。
タイミングが悪いわね――
タイミング? 一体何の話よ。もしかして私をバカにしてるの? 私じゃあんたを捕まえられないとでも思ってるわけ?
ふんっ……確かに私は上官ほど強くはない。でも、私だって準備は整えてきたんだから。
今度は全力で立ち向かってやるわ!
ちょっ――どういうつもり?
静かに。
放しなさい、このバカ女! 片腕さえ押さえたら剣を抜けないとでも思ってるの? 言っておくけどね、私にはまだこのハンドキャノンが――
騒がないで。奴らに気付かれるから。
ううっ……両手を押さえるなんて、卑怯だわ……
えっ……? あの、何か聞こえませんか?
ぬるぬるの何かが、地面を這ってるみたいな……それもたくさん……外から聞こえるみたいです。
これは……何なんでしょう? 人が立てるような音じゃありませんよね。だって、こんな音今まで聞いたことないですもん……
……来てるわね。
……数を増しているな。
何が奴らを引き寄せる? 住民か、それとも彼女たちか?
十匹――
いや、二十匹。
――まだ増えるか。その上飽きずに進み続けるとは。引き寄せられるように上陸し、街に向かって押し寄せてくる……
……あの方向は――
教会か。
おや? 今日の彼らは随分と興奮しているようですね。
……これは、そのように触れていいものなのかしら?
言葉に気を付けてください。「これ」などと呼ばわることはなりません。彼らは既にこの海の一部……あなたよりもずっと純粋な海の子となったのですから。
……
あぁ……海から神託が届きました。今宵もまた格別だ……もう暫くすれば、潮が満ちるそうですよ。
彼らは匂いを嗅ぎつけたのでしょう。同胞が加わる時はいつも喜びに満ち溢れ、落ち着きのない様子でして。仲間を迎え入れるために水面へと顔を出し、上陸しようとさえするのですよ。
ですが、これはごく当然のことです。我々は皆、自らの兄弟姉妹を愛しているのですから。
本気で彼らをご自分の兄弟だとお思いですの?
ではなぜ、あなたはそう思わないのですか? 私は必要とあらば、陸の人々のことさえも――いまだに二足歩行を強いられる可哀想な彼らのことさえも、喜んで兄弟と呼びますよ。
最も汚らわしい雑種の血を引いてさえいなければ、いつの日かあなたにもこの機会が訪れることでしょうに。
あら。それは残念ですわ。
美しく懐深き海よ。この手が触れることをお赦しください……
おや……これは面白い。今夜の彼らは格別に元気なようですね。新たな友人と古い友人が訪ねてくるからでしょうか。
気にはなりませんか? 上で、一体何が起きているのか。
……うるさい。
本当にうるさい。眠れない。
布団に、頭を押し込もう。
これで、聞こえない。
これで、見えない。
……
うぅ……腹減った……
腹、減った。
腹、減った。
トタン……
きゃっ!
う、わああ――
来たわ。
こ、これは何!? 何なのよ!? 黒い……花? ううん、鱗獣かも……ってか、なんで動いてるの? 吐き気がするわ、うえっ……
待って、まさか……いいえ、そんなはずない! ありえないわ!
ま、窓を叩いてます! もしかして……中に入ろうとしてるの!?
い、入れてはダメ!
窓をちゃんと閉めて――
閉めても意味ないですよ! この窓、壊れちゃってますから。見てください、そこら中ヒビだらけでしょ……
なっ――は、入ってきた!
うわっ、まだ動いてるじゃない! 床をうねうね這い回ってるし……ああ、こっちに近付いてくる!
こいつら……こんなにしぶとくないはずなのに!
数が多すぎます……それに外にも、たくさんいるみたい!
ああもう、いくら斬っても切りがないわ!
私の灯りを……ううん、ダメ。こいつらに灯りは効かない。
弾は……残り一発ね。
し、審問官!?
動かないで! 私が連中を撃ったら、あんたたちはこの家から飛び出して、廃墟群の奥に向かって走りなさい。こんな割れ窓のある部屋より、向こうの方がまだ丈夫だもの。
でも、あなたの手……震えてますよ。
な、なんてことないわよ! 聖なる経典が……私に力を与えてくれるから。
だから、わ、私は、怖くなんかない!
私が部屋を出て、連中を殺すわ。きっと暫くは食い止められるはず……その隙に、あんたたちはさっさと逃げなさい。
……
あなた、彼女を連れて部屋の奥に隠れてて。
えっ? な、何言ってんのよ! 見てわからないの? すごい数なのよ! 私だってこんなにたくさんは相手できない! きっとすぐにもなだれ込んでくるわ。どこにいたって同じよ!
それと、窓からはできるだけ離れて。
あんたって本当に人の話をこれっぽっちも聞いてないのね!
私が出る。あいつらを引きつけるわ。
はぁ!?
歌い手さん、外へ出ちゃダメです……!
確かにあなたはすごいです。これまでに見たどんな人よりも、ずっとすごい人です。でも、あなたはケガしてるんですよ! この変な生き物たちだって、あ、あまりにも多すぎますし!
だから、ね? 審問官も、出て行っちゃダメですよ……
皆で隠れましょう? わ、私ここにキャビネットがあるの知ってるんです。扉もちゃんと閉まるんですよ。ほら、すぐうしろに……ここにあります。三人で詰めれば、きっと大丈夫ですから……
私が出て行くしかないの。あなたたちを生かす方法は他にない。
ねぇ、エーギル。ヒーローを気取るにしても、今じゃないでしょ。あんたの出番はここじゃないのよ!
いいえ。あなたの出番こそ、今じゃない。あなたには関係ないの。
だって――あれは私を探しに来たんだもの。
スカジが扉を開いた。
久しく嗅いでいなかった匂いが、潮風の吹く方角から漂い、脳へと染み渡っていく。陸のものでない奇妙な生き物が、寂れた通りいっぱいに溢れかえっていた。
それらは上下にうごめき、呼吸し、伸縮する。街をまるごと腐食させるかのように急速に広がり、数を増やしていく。かつては文明を宿した都市の亡骸が、その不吉な影に飲み込まれようとしていた。
……
……
!!!