潮汐の下 SV-5・戦闘後
捨て去られし者
ね、ねぇ……見た? 今の……
はい……見ました……
あいつ、あんなことまでできるの?
ええ、だってさすらいの歌い手なんですから。あの人なら……
歌い手さんになら、きっとできるはずです。
「歌い手」ね……あんた、まだあいつを歌い手なんて呼ぶの?
それじゃ、なんて呼ぶのれすか? 審問官ならご存知ですよね、教えてください。
……
私、もう行くわ。
あっ、待ってください!
何よ、あなたまで私を引き止めるつもり? 私は審問官なのよ!
――こ、このべたべたした奴は……!
ふぅ……や、やった、やっつけました! 危ないところでしたね、審問官。
あなたがこの椅子を壊しといてくれてよかったです。お陰で、これを武器にしてやっつけることができましたから。そうじゃなきゃ、この怪物があなたの頭まで登っちゃうところでした!
あ、あんたね! ああもう、ここの人ってほんとどうかしてるわ!
あんた、この怪物が怖くないの?
んー、ちょっとは怖いですよ。でも大丈夫です、審問官ほどじゃありませんから。
……あんた、私をこんな怪物と比べてるわけ!?
はぁ、もういいわ。勝手になさい。あんたはこいつらを見たことがないし、こいつらの恐ろしさを知らないんだから、怖がる理由なんてないものね。
……待って、他の住民が外に出てきてるじゃない。彼らは……何をしているの!?
……そうか。彼らも、全然怖がらないのね。
だとしたら、早く……
早く問題の所在を、明らかにしないと。
……
砂。
……塩だ。すごく、塩からい。
さっきの、食える。全部なくなった。もったいない。
もったいない。
塩も、食える。
食える。
もっと、もっと……うっ、おえっ。
汚れた。
飲み込む。もっと……
待ちなさい!
……
あんたにはまだ聞きたいことがあるの。だから、きちんと答えなさい――あれがあんたを探しに来たってどういうことなの?
私、血が出てるの。
そんなの、見ればわかるわよ。あんたは師匠に負けて、傷を負って逃げ出した。それとこいつらが……怪物が突然現れたことに、一体何の関係があるっていうの?
つまり、血の匂いを嗅ぎつけて来たのよ。
確かに……あいつら、我先にとあんたに向かっていったわね――それじゃ、あの怪物はあんたを殺すために来たの?
かもね。
かも、ですって?
あいつらじゃ、私を傷つけられないもの。
あ、あんたね! その言い方がムカつくのよ! わかってるの!?
事実を言ったまでよ。
はぁ……もういいわ。あいつらは――怪物たちは――消えたもの。
そうね。
まるで最初から存在してないみたいにきれいさっぱり、ね。この目ではっきり見てなかったら、夢かと思ってるところだわ。
あの怪物……「恐魚」。前にも散々見てきたわ。少し見た目は違うけど、どれも同じ嫌な臭いがした。
でも、あの時は海岸で見たの。それに、ここまで多くもなかったし……あいつらは海の生き物じゃなかったの?
それこそ、昼間あんたが出くわしたみたいに……海辺に近付いた時だけの厄介ごとだと思ってたんだけど……
なのに今、あいつらは海からこんなに遠くまでやってきた。通りに溢れかえりそうなほどの大群で……
あいつらはどこへでも行けるの。形を変え、拡散し、浸透して。
鋼鉄の都市、高地の山村、黄砂で満たされた荒野。私が行く先に、あいつらもまた訪れる。
そんな……ありえないわ!?
大地は海に包まれているの。海が見えない場所だからといって、そこに海水が届かないわけじゃないのよ。海は生きている。そして流れ続けている。海がもたらす災いもまた、そういうものなのよ。
イベリア国内の一部地域に危険な海が存在する、というのは知っていたわ。だけどイベリア以外の土地でも……脅威に晒されるとは知らなかった……
脅威は常に存在しているの。
でもこれは、私がもたらした厄災だから。私に近付けば、あなたまで巻き込まれてしまうわ。
……あ、あんた、一体何者?
もう言ったでしょ。
さすらいの歌い手だなんて今更信じられないわよ! だって、私は全部見てたんだもの。
あの怪物との戦い、明らかに立ち回りを熟知した動きだった。
あいつらを仕留める技術に至っては、私や上官と戦った時よりずっと手慣れたものに見えたわ。
人間は、あまり手応えが良くないから。
んなっ……ちょ、ちょっと、変なこと言わないで……いくらあんたが変人だからって、限度ってものがあるでしょ。
ねぇ、あんた……前はハンターだったんじゃない? あんたの目、そういう感じがするわ。
あなたがそう思うのなら、そうでしょうね。
私の目は誤魔化せないわよ。ってことは、ターゲットはこの恐魚かしら?
あいつらは、排除しなくてはならないものよ。
はぁ……ほんとムカつく言い方しかできないのね。それに、あんたが言うと大した話じゃないみたいに感じるわ。
まぁ、あんたが歌い手でもハンターでも……どうでもいいわ。
今の状況から判断して……あんたは私だけじゃなく、この街の住民たちを、そして都市全体を救ってくれたと言えるでしょうしね。
あんたはきっと敵じゃない。でも、友と見なすこともできないわ。
いずれにせよ、私の職責としてあんたを連行しないといけない。
……
あなた、私がここに来た目的を訊いたわよね。
私は、答えを見つけるためにこの街へ来たの。その答えに関係しているのは、私自身……そして私が探している人だけ。
……それ、初耳なんだけど?
……言う機会を与えてくれなかったから。
……
どちらにせよ、私の判決は変わらないわ。
あんたはこの都市の住民じゃないもの。そもそも、外の人間が現れること自体、間違いなのよ。
それに……あんた、確かに言ったわよね? 厄災をもたらしたのは自分だ、って。
――まあ、私が想像してたのとは少し違ったけど。
でもね、エーギル。あんたは危険なの。この都市にとっての危険そのもの。そして、この都市もまた、あんたにとって危険な場所だろうし……
どういうこと?
あの人たちを見て。彼らは……恐魚の死骸に、その残骸にかじりついてる。彼らはあの怪物を恐れていない……いいえ、あれが何であるかさえ、わかってないのよ。
飢えを感じるから、食べる。怪物と同じ行動原理だわ。人だけが……人間だけが、恐怖を感じることができるのよ。
恐れを知らない彼らは……まだ、人間と呼べるの?
彼らは必死で生きようとしているのよ。
生きたいという思いは、人も怪物も変わらないもの。
生きようとしている? ……この状態を、生きてるって言えるの?
……なるほど。上官が「お前のその目で確かめろ」と仰ったことの意味が……今、ようやく理解できたわ。
この都市最大の問題は、住民たちが何をしているかではない。彼らがまだ生きていること――それこそが最大の異常なんだわ。
問題の所在はそこにある。彼らは危険よ、あんたと同じくらいね。間違いは正さなければならないように、危険もまた制御されなければならないの。
あなた、まだ諦めてなかったのね。
むしろ、尚更あんたを見逃すわけにはいかなくなったのよ。
……言ったはずよ。私にはまだやることがある。時間がないの。
それじゃ、もう一度やり合うしかないわね。
エーギル、あんたがケガをしてることは知ってるわ。これだけ多くの恐魚を退けるには、随分体力を使ったでしょう。
だけど、私は容赦しないわ。
えっ? 何よこれ、貝殻……?
あんたじゃないわね、エーギル……あんたが貝殻なんか投げてくるわけないもの。
地面で吐き散らかしてる住民たちかしら? ううん、そんなはずないわ。彼らは何を食べてるのかすらわかってないんだもの。私に構うわけがない。
飛んできたのは……あの窓から?
……
そこにいるのは誰!?
誰がこんなことをしているの? 早く出てきなさい!
はぁ……
貝殻を投げたのはあんた? やっぱり私の邪魔をするのね。そんなにこのエーギルを守りたいの?
ええっと、は、はい、そうです、私がやったんです!
アニタ、バカなこと言うんじゃないよ。
ペトラおばあさん!? で、出てきちゃダメですってば……
貝を投げたのは私だよ、審問官様。
あなた……今、私に向かって「様」って……
他の連中と違って、私はあんたがどんなお人か知ってるからね。
……この街にも、まともな人がいたのね。
おばあさん、あなたはきっと目が悪いのよね。一旦下がっていてもらえるかしら。対処すべき危険がいくつもあって、忙しいの。
いいや、ご覧なさい審問官様。私の目はとってもいいんだよ。たとえ辺りが真っ暗だろうと、あんたが避けさえしなけりゃ貝をぶつけてやれるくらいにはね。
小さな貝殻、うるわし波の花……♪
貝は一枚また一枚、花は一輪また一輪……花は一輪また一輪……♪
あなたが意図的に投げたと認めるのなら、私は――
審問官……様! ペトラおばあさんは、病気なんです……だからおばあさんを責めないでください。
病気? ……道理で。ええ、確かにそのようね。
これ、アニタ。またなんてバカなこと言ってるんだい。私のどこが病気だって?
ペトラおばあさん、もう話さないで……お願いですから。
病気……病気だって!?
病気なのはどう見てもこのサルヴィエントだよ! この――この場所の一人一人、全員だ! それからあんた、高慢ちきな審問官様……あんたも相当重症だね!
あんた、そのおばあさんを連れて家へ帰りなさい。
私はより重要なことに対処しなければならないの。
何が重要だってんだい? 生きることより大事なことがあるってのかい?
……審問官として、命を懸けてでも守るべき重要なこと、それだけの価値があるものはいくらでも存在するわ。例えば、法の定めた正しいことすべて、それから私たちの国そのもの……
その「命を懸けて」ってのは……一体誰の命のことなんだい?
それは……もういいわ。こんなこと話しても無駄だもの。あんたは老いと病で理性を失ってる。だから私がより重要なことに対処できるよう、道を譲ってくれるなら……あんたの行為は不問にするわ。
審問官様、あんたの言う正しいとか間違いだとか国がどうとか、そんなんじゃ私にゃさっぱりわからないね。
いいかい。私が聞きたいのはね、あんたが守ろうとしているものに初めから私らは入ってないんじゃないか、ってことなんだよ。
な、なんですって……!?
あんたらはここの連中を連れて行った。たとえ生きるためにしたことでも、食べ物を奪い危害を加えるのは傷害罪という秩序を乱す行いだからだと、あんたらは言っていたね。
その時対処したのは私じゃないけど……でも、罪を犯したのなら、それが当然の対処というものでしょう。
だが……彼らは、あれきり帰っては来なかった。
悪いことをした人間を連れて行けば、生活が良くなると思うかい?
混乱の原因を速やかに排除すれば、当然秩序が訪れるはずよ。
けどね、それでも食べ物は減っていくのさ……年寄りは皆、餓死するか病死するかのどちらかだ。若いもんでさえ、多くは飢えを乗り越えられやしない。
あんたがしきりと口にする秩序だがね……それは私たちに黙って死ねと言うようなもんじゃないのかい? そうすりゃ騒ぎも起きないし、お偉いさん方は安心して柔らかいベッドで寝られるからね。
……違うわ。そんなのじゃない。
苦しいのはあなたたちだけじゃないわ。イベリア全土がそうなの。
資源を奪い、そのために他人を傷つける罪人は捕らえられるべきではないの? 例えば、十人分の食料があるとしたら、均等に分ければ十人のお腹を満たすことができるのよ。
でも、彼らにどう分けるべきかを伝えなければ、彼らは際限なく争うでしょう。そうなったら十人のうち一人しか生き残れないわ。
混乱の中に正誤の境界線を引き、善悪を説き、人々を正しい道へと導く。それが裁判所の役目よ。この導きがなければ、国全体が砂の如くばらばらになり……崩れ去ってしまうことでしょう。
あんたの言うことは……ちっとも現実味がないねえ。
私たちに道なんかありゃしないよ。審問官様、あんたの言う道ってのは一体どこにあるんだい? 本当に道が必要だった時、あんたはどこにいたんだい?
私は……私はただ、あんたたちを助けたいだけなの。私は、人々を助けるためだけに、努力を重ねて審問官になったのよ。これこそがたった一つの正しい道だと……そう、信じて……
私を……私たちを助けるだって?
私ゃ願いもしたし、想像もしたし、渇望もしたよ。誰かが来て、私たちを助けてくれると、そう信じてた。そうして数え切れないほどの夜を、声が枯れるまで叫びながら過ごしたもんさ……
けど……あんたたちは来なかった。
あんたたちは、人が間違いを犯した時だけ来る。違うかい?
私みたいな老いぼれが、今に至るまで生き長らえちまった。つくづく惨めなもんだよ。それこそ毎日が拷問みたいさ。
そんな老いぼれが……ほれ、今あんたを攻撃しているんだよ。反撃しないのかい、審問官様。
早く私を連れて行ったらどうなんだ! ここから引き離して、この老い先短い無意味な命を終わらせたらいいじゃないか!
早く、早くおし! もう待ちきれないんだ――私は何年も待ったんだよ! ごほっ、げほっ、ごほごほっ……
……私には……
私には、やり返すなんてできないわ。だって、あんたの怒りは……正しいもの。そんなことのために、私の剣は振るえない……
だからお願い……おばあさん、私に手を……出させないで……
ごほっ、げほ、ごほ……ごほっ……
ペトラおばあさん!
ア……アニタじゃないか。あんたも広場へ来たのかい?
もう空は暗いのに、どうしてまだ歌が聞こえないんだろうね?
そこのあんた……歌い手だろ? なら、どうして歌ってくれないんだい? それにあんた、ハープは? 私ゃ踊りたいんだよ……早く歌っておくれ。
……
どうだい、審問官様。あんたよか、さすらいの歌い手の方がよっぽど役に立ってるよ。彼女は歌を歌ってくれる。彼女は……彼女はこうして、私たちの前に立ってくれるんだ。勇敢な娘だよ。
私は怪物なんて怖かない。もちろん死ぬのも怖かない。私が怖いのはこうして繰り返す毎日さ。アニタ、私は狂っていると思うかい?
いいえ、ちっとも。ペトラおばあさんのその震えは、ただの寒さのせいですよ。だから、もう帰りましょう。横になっていれば、きっと良くなりますから。
わかった……わかったよ。帰ろうじゃないか。どの道、私はどこへ行けばいいのかすら、わかりゃしないけどね。
あんたたち……!
おや、気が変わったのかい? まだ私を連れて行く時間も、処刑する時間もたっぷりあるよ。あんたがそうするなら……少なくとも私は一人の人間として死ねるんだ。
やるなら私が生きているうちに頼むよ、審問官様。あまり日も残されちゃいないんだ。
おいで……歌い手や。私らと一緒に行こうじゃないか。私はあんたの歌が聞きたいんだ。
……
……今は、見逃してあげるわ。
だけど、私は必ず戻ってくるから!
……私から逃げられるとは思わないことね。この全貌は、私が暴いてみせるんだから。
……ふぅ、危なかった。
歌い手さん、大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ……
……ええ、平気よ。
強がらなくてもいいんですよ? 審問官様はもう行っちゃいましたから。
別に、彼女のことは怖くないわ。
それはわかってます。でも、あなたに怖い物なんてあるんですか?
……彼女は悪人じゃないわ。
だって、私を去らせることは……あなたたちにとってはいいことだもの。
「いいこと」? 「いいこと」なんて、多分ここにはないと思いますよ。
ペトラおばあさんだって、あんなふうですけど……別に審問官を恨んでるわけじゃないですし。私にはちゃんとわかってます。おばあさんが恨んでるのは、きっと別の何かだって。
さあ踊ろうじゃないか。ふふふ、私ゃ歌声が大好きなんだ……
ペトラおばあさんはお疲れなんですから、やめときましょ。その代わり、歌い手さんが歌ってくれますから! ね、歌い手さん?
……
でもその前に、歌い手さんは手を見せてくださいね。ケガの具合を確かめなくちゃ。
……近付かないで。
周りにいると危ないから、そうやって避けようとするんですよね?
大丈夫ですよ。私はあなたを信じてますから。本当に何かが起きたとしても、あなたなら絶対勝てるって。
……
よかった、ひどい傷じゃなさそうです。もう血が止まってますよ。
歌い手さんって本当にすごい人ですね。こんなに早く傷が治っちゃうなんて。
……これでも少し遅い方よ。
でも、傷は大したことないのに、元気がなさそうに見えます。さっき選んだ家も崩れちゃいましたし……いくらあなたでも、あれじゃゆっくり休めませんよ。やっぱり私たちと一緒に戻りましょう。
アニタの言う通りさ。ほら、行くよ。あんたにちょっかい出させやしないよ。
けど……
はいはい、「いらない」とか「必要ない」とか、「私にはまだやることがある」とかはもう聞いてあげませんからね。歌い手さんったら、そればっかりなんですから。
私はまだ大丈……
うっ……
ふらふらな人を大丈夫だとは思えませんよ。今のあなたには面倒を見てくれる人が必要なんです。それに、ちゃんと眠ることも。
きっと、あなたが探している人だって、そんなふうに無理してるあなたは見たくないと思いますよ。
……
さっきの、騒ぎは……一体、何が起きていたんだ?
……いや。別に何だろうと、俺には関係ない。
これ以上の質問は必要ない。俺はもう、答えを得た。俺は道を……どこへ向かうべきかを、知っている。
前へ……ただ前へ進むだけだ。
明日になれば、皆は食べ物が手に入る。俺は……いや、俺たちは、みんな生きていける。
「私たちは生きたい。だからこそ互いをより深く愛するのだ。」
「愛が私たちを強く結びつけてくれる。」
「己自身を強健にせよ……」
「一族すべてを強健にせよ……」
……
これは……
あいつのハープだ。ここに落ちているとは。
……確か、こうして音を出していたな。
…………
汚い音だ。
こんな物、役立たずだ。捨てられ、朽ちていけばいい。