潮汐の下 SV-6・戦闘前
拒食
果てなく、限りなく……垂れ込める濃霧……
ふんふふ~ん……♪
う……
歌い手さん、起きたんですね! おはようございます!
……今、歌っていたのは……?
歌って……こ、これのことですか? ええと、これはあなたが寝ている間、ずっと口ずさんでたものなのれす。だから真似して……でも、全然上手く歌えなくて……
私……
きゃっ! う、歌い手さん? どうしてそんなに強く掴むんですか……!?
あなたが……
お母さん……
……かい、ぶつ……
……怪物。
怪物!
きゃっ!
うう……歌い手さん、ケースが……ケースが食い込んで、痛いです……
私は……
て、手が緩んだ……び、びっくりした……
歌い手さん、私を殺したくなったのかと思いました。
……
あなたを殺すのは簡単よ。
でも、あなたは私を殺したくないんですよね?
そんなこと、あなたにわかるの?
はい。
そう……でも、私にはわからないわ。
えっ?
ま、また急に飛び出して……もう! 歌い手さん、どこへ行くんですか!
……上官、じきに満潮です。
海の色が……あの辺りの色が変わりました。
それに海中に何かが……あれは、貝に鱗獣? でも、どうして急に……というか、一体どこから? とにかくすごい数です。しかも、海岸へ近付いてきているような……
有り得べからざる海流に沿い、より深くからやってくるのだろう。
そ、そのようなことが……!?
私はてっきり……彼らの言う、海へ行けば食べ物が手に入るという話は、バカげた迷信だと思っていました。絶望の中で誰かに惑わされ、でたらめを言っているんだとばかり……
まさか……彼らは本当に海と取引していたの? 自分たちを怪物の餌にして、見返りに食べ物を受け取っていると……?
なんて恐ろしくいびつな共生関係なの……道理で恐魚が山ほどいるわけだわ!
くっ……昨日であれば、海へ行くのを阻止できたというのに!
是正に結果が伴うとは限らない。学びを得たな、審問官。
……ッ! ……私は……私は間違えたのでしょうか、上官?
私は、ただ彼らを救いたかっただけなのに……
間違いを正すには、正しい道へと戻すか、あるいは――
ですが……彼らにとっての正しい道とは、一体何なのでしょう?
サルヴィエント……この土地は、そしてこの海岸は、もはや食料を生み出すことなどできはしません。
そう、結末はとっくに……数十年前に決まっていたんです。どうあがこうと無駄なこと。移動都市とその文明、この地の人々、すべてが慢性的に死へと向かって進み続けています。
彼らは私に問いました。もし……もしも歩むべき道がなければ、どうやって正しいことと間違ったことを見分けるのか、と。
――あるいは、間違った存在を消し去ることもまた是正だ。
じょ、上官……! その仰りようは……
お前は疑いを持ったのだな。
私は……いえ、そのようなことは。私はただ……
確かに彼らは……今でこそ、この有様です。ですが彼らもかつてはイベリアの民でした。私は、彼らを守りたい。ここの住民たちを……いいえ、この国を良くしたいんです。
ならば、お前は疑いを持つべきなのだ。
え……?
判決を下す時、頼るべきものはお前自身!
は、はい、上官……
この海を見ろ。お前は何を見た?
はい……脅威です!
丸暗記の回答はやめろ。
はい、上官!
海は……流れ、打ち寄せ、絶えず変化しています。
なら、目にしたすべてを記憶しろ。
変化は過去のものであり、現在起きているものであり、この先未来に起こるものでもある。己の目で確かに見定めることができなければ、道を失うことだろう。
じょ、上官……! 足元のこれは、一体……!?
お前は、何だと思う?
恐魚……昨晩街を襲った奴らの生き残り? ……いいえ、多分違う……こいつは海岸を彷徨っていた……長い道のりの果てに這い上っていたんだ……昨日の奴らとは違う……
これは……ああ、私には恐らく、わかっています……
そう……浄化しなければならない邪悪だ。
……わかりました。……おかげで、取引の全容が見えました。
海に入った人は、こうなってしまうのですね……ここは怪物の巣窟であるばかりでなく、それを生み出す温床でもある……
ああ、それは……
つまり、ここの住民は誰もが怪物になってしまうということです!
……
私の剣よ、勇気をください……
……上官、私はもう一度、街に戻ります。
はぁ……はぁ、はあ……う、歌い手さん……走るの……速すぎますよ……
まだ十分とは言えないけどね。
……え?
またあなたに追いつかれてしまったから。
はぁ、はぁ……あはは……歌い手さん、この街は、私の故郷なんですよ……この辺りのことなら、私の方がずっと詳しくて当然です。
もう行かないと。
行くって……
ここを離れるの。
えっと、それは……仲間のいる場所がわかった、ってことですか?
……少なくとも、あなたたちから離れるべきだと思ったのよ。
えっ? な、なんでですか?
あの審問官は……一つだけ正しいことを言っていたわ。
ええと……色々話してましたけど……どれのことですか?
あなたたちにとって、私はとても危険だってことよ。
昨日の夜のことですかね? けど、歌い手さんは私たちを助けてくれたじゃないですか。皆あなたに感謝してますよ。
あなたたちを助けた……? あなたはそう思っているの?
もし、あの恐魚を一匹でも仕留め損なっていたら……そいつは進み続けて、あなたをばらばらにしていたわ。
いい? あなたはあいつらに殺されるところだったの。
そして、あいつらを引き寄せたのはこの私。だからあなたは、私に殺されかけたも同然なのよ。
そ、それは違うと思います……
気休めは止して。……それにね、前にも同じことがあったのよ。
私のせいで多くの人が死んだの。だったら恨まれ、恐れられ、責められるのは当然の報いよ。
それは……その人たち自身の問題ですよ!
だって歌い手さんは、わざとやったわけじゃないんですから。
本当に……そうなのかしら?
わからないわ。
歌い手さん……
あれ以来……私にはもう、わからないの。
だからこそ、あいつを殺せば、答えを得られると思ってた。
歌い手さん……顔が真っ青ですよ。
ケガをしたばかりですし、体力も消耗したと思います。まだ万全ではないんじゃないですか?
やっぱり私と帰って休みましょう。少し寝たら、きっと良くなりますよ。
……
どうしてあなたは、私を怖がらないの?
えっ?
あなたのおばあさんは、私を化け物と呼んだ。あなたの仲間が私を見る目は、敵意に満ちていた。
どこへ行っても……皆あの目で見てくるの。まあ、そんなものとっくに慣れてるけど……
でも、あなたは違う。あなたの目に、私はどう映っているの?
あなたは……あなたは歌い手さんです。
「歌い手」、ね。私が言ったことを、あなたは信じるのね。あの審問官は信じなかったみたいだけど。それなら、今私が「自分は怪物だ」と言えば、あなたはそれを信じるのかしら?
……信じませんよ。
……
あなた、どうしてずっと私についてくるの?
え……?
何でもあげるって言っても、あなたはいらないって言うし……
かと言って、私を殺したいってわけでもないし……
こ、殺す? 歌い手さん、どうしてそんなこと言うんですか?
例えば、私が何かを成し遂げたとしたら、それに対し誰かが報酬を払う。あるいはその逆もあるけれど……陸地の人は皆そうよ。
交換は、約束を伴うもの。そして……約束を交わすから、信用が生まれる。
やくそく……?
約束が何かを知らないのね。
はい、聞いたことありません。
それじゃ、よく聞きなさい。あなたは私を助けた。そのお礼に、私はあなたが欲しいものをあげる。これが交換のお約束ってものよ。
……でも私、何もいらないんです。
嘘ね。
ハンター……じゃない、私は鼻が利くの。この目と同じくらいね。
う、ううん……?
あなた、言ったわよね。ここはあなたの家、だからすぐに私を見つけられた……って。これも嘘でしょ。
本当のことを言わないのなら、私はあなたを信じない。
いや! 歌い手さん、行かないでください!
本当のことを言ってないんじゃなくて……私、わからないんです。
歌い手さん、あなたは私たちにとって……ううん、私にとって気になる謎なんです。あなたは外から来た人ですし、あなたみたいな人は、その……初めて見ましたから……
どうしてあなたがここに来るってわかったか、知りたいですよね。ごめんなさい、本当のことを言わないようにしてたんじゃなくて……なんだかきまりが悪くて。
ここは……この街の端。市街地から一番遠い場所なんです。
あなたが私たちを避けてるのはわかってました。だから、街を離れるつもりなら、きっとあなたもこの場所に来るだろうと思ったんです。
あなた「も」?
私、よくここに来るんです。もちろん、トタンたちには隠れて……私がこんなに遠くまで来てるって知ったら、機嫌が悪くなっちゃいますから。
見てください、あの場所。とっても高いでしょう。時々あそこに登るんです。強い風が吹いてて、遠くの方までよく見えるんですよ。
外に興味があるのね。
そうなんでしょうか……時々、外はどうなってるのかなって考えることはありますよ。でも、そんなの意味がないってわかってます。皆そう言いますから。だから一人で隠れて考えるしかないんです。
物を拾う時だって、一番遠くへ行ったとしてこの辺りまでです……これ以上進んでも……外には、役に立つものなんて何もないですから。
興味があるなら、もう少し遠くまで行ってみればいいのに。
前に、一番西の方まで行ってみようとしたら、トタンが脅してきたんです。外は怪物だらけだから、一歩でも街を出たら死んでしまうぞ……って。
でも、歌い手さんは、その外から来た人ですよね。私があなたについていくのは、聞きたいことがたくさんあるからなんです……トタンが言っていたことって本当なんでしょうか?
多分。
外に行けば、あなたは死ぬでしょうね。
そっか……本当だったんですね……
落ち込まないのね。
はい。チャンスがあったら、見に行ってみようと思います。
怪物がいても大丈夫です……私、そんなに怖いと思ってないみたいなので。
へえ?
審問官が言ってました。私が怪物を怖がらないのは、怪物の恐ろしさを知らないからだって。
きっと……審問官の言う通りですね。
あんなのでたらめよ。
え、ええっ……
だって、私も怖いとは思わないもの。
あははっ……それは、歌い手さんの前じゃ怪物は何にもできないから言えることなのれす。
でも、私は歌い手さんとは違います……あんな怪物をはっきり見たのは、昨日の夜が初めてなんです。あの時、何でかはわかりませんけど……今までにないくらい心臓がバクバクしました。
今朝起きた時も不思議でした。これまで感じたことがないほど、空が綺麗だって気付いたんです。雲の流れに風が動いているのを感じて……近付いてくる波がよく見えました。
こんな一日、これまで一度もありませんでした。これまで通り、朝から夜まで同じことの繰り返しじゃなくて……何が起こるかわからないからだと思うんです。
それは興奮しているのよ。
これが……興奮ですか?
恐怖と興奮は大して違わないわ。どっちも鼓動が速まって、血が熱くなるんだもの。
私、病気になっちゃったんでしょうか?
病気じゃないわ。それで生きていると実感する人もいるから。
生きている……実感。それってこんなにいいものだったんですね。外での毎日は、いつもこんなふうなんですか?
ここよりはいいでしょうね。
……私、本当に外へ行けるでしょうか?
私の箱……あの宝箱がいっぱいになったら。
私……食べ物をたくさん集めなくちゃ。ペトラおばあさんも一緒に安心できる場所に住みたいんです。
私は……わっ!
うっかりしてると、怪物に食べられちゃうわよ。
歌い手さん……また、助けてくれましたね。
……あなたがここまで来なければ、こんな面倒ごとは起こらなかったけど。
あはは……ご、ごめんなさい……
え? な、何?
私の足……何かが私の足を掴んでるみたい。
ぬ、ぬるぬるする……それにすっごく重たい!
……また来たのね。どこにでも現れて……本当、面倒な奴ら。
うぅ……歌い手さん、わ、私もう、限界です……
目を閉じて。
えっ?
そして手を離すの。
……それって大丈夫なんですか?
信じるか信じないかは、あなたが選んで。