潮汐の下 SV-6・戦闘後
拒食
きゃっ! いたたた……
……人相手だと、力と角度のコントロールが難しいのよね。
だ、大丈夫、大したことないですから……
あいつら、何を嗅ぎつけて来たのかしら。私から、血の匂いは……しないみたいだし。
傷口からも……もう血は出てないのに。
それに、どうしてまだ興奮してるの? この辺りの恐魚はこんなにも数が多いものなの?
昨日の怪物たちのことですか?
まあ、そうね。
あれは今まで、一度も見たことなかったものなのれす。
そう。それなら、数日はここには来ないことね。早く帰りなさい。
歌い手さん。
……スカートを引っ張らないで。そこまで子供じゃないでしょ。
えっと……私、何が欲しいか決まったんです。あなたの歌を聞かせてください。
……私の歌を?
だって……私は歌を知りませんから。あなたが夢の中で口ずさんでたのは聞きましたけど……でも、うまく聞き取れなかったので。
わかったわ。
今、「わかった」って言いました? これが「約束する」ってことですか?
そうなるわね。
……はぁ……
……私のハープ。
え? あれ? そういえばそうですね。歌い手さんのハープ、どこに行っちゃったんですか?
……探しに戻るわ。
わかりました、じゃあ私も一緒に探しますね。
あっ、これって……もしかして、私と一緒に戻ってくれるってことですか? や、やったあ!
……
そこまで……喜ぶことかしら?
……
ハーイ、ほこり! おはよう!
トタン……
あれ、言われてみれば……トタンったらどこへ行っちゃったの? あなたたちいつも一緒なのに。
トタン。
あなたが見てる方向って……海……?
まさか、昨日赤い貝殻を引いたのって、トタンなの?
はぁ……
木枠、俺の病気、ひどくなったみたいだ。
俺の胸、はちきれそうだ。まるで、爆発するみたいだ。
何も、食べたくない。放って、おいてくれ。
……はぁ。
歌い手さん、私たちの家へようこそ! また来てくれて、とっても嬉しいです。
ううっ……あぁ……
ねえ、あなたのおばあさん……
ペトラおばあさんはまだお休みしてるんです。昨日一緒に帰ってきてから、ずっと目を覚まさなくて。
きっと、おばあさんもたくさん体力を使って、疲れちゃったんだと思います。まさかおばあさんが出てきて、審問官にあんなこと言うなんて……普段の様子とは全然違いましたよ。
……ええ。彼女は……すごい人だわ。審問官を追い払ったのは彼女だもの。
ふぅ……はぁ……
審問官を……追い払った!? 歌い手さん、そんなこと言って……もし審問官に聞かれたら、きっとまた怒っちゃいますよ。
好きにさせたらいいわ。
それで、また彼女が手を出してくるのなら……その時は……
審問官はもう、あなたにはちょっかい出さないと思いますよ?
……誰へのちょっかいだろうと同じことよ。
……
……あっ、そうだ! そろそろハープを探しに行きませんか?
待って。
はい?
頭の上。
わっ! 緑のねばねばがたくさん……な、何でしょうこれ?
海藻でしょ。
さっきくっついたんでしょうか?
多分ね。
これ、何かに使えますかね? 見た目は、海で採れる他の草にも似てますし……乾燥させたら、ベッドに敷けるかな? ペトラおばあさんは腰が悪いので……ちょうどいいかもしれません。
……貸して。
貝殻を使って、この海藻をすり潰すの。この粘液は、洗い流しちゃダメよ。
すり潰したら、海水を加えて。全部ひたひたに浸かるようにね。そうしたら、この小瓶に入れて、蓋をする。あとは半年放っておけばいいわ。
瓶の中の液体は、初めは緑色だけど……色が薄くなってきたら、発酵したってことよ。そうなれば完成。飲めるようになるわ。
う、歌い手さん……
どうしたの? わからないところでもあった?
初めて……初めて、私にたくさん話をしてくれましたね!
……そうね。
ああ、それと貝殻も捨てないで。洗って乾かせば、海藻で作ったお酒の器に使えるでしょ。
おさけ……って、何ですか?
そこに書いてある文字が「酒」よ。ここは元々酒場だったんでしょうね。
この字……「さけ」って意味だったんですね!
お酒を飲めば幸せになれるし、悩み事も忘れられる……って、知人たちがよく口にしていたわ。
それって本当なんですか?
……いいえ。
でも、味は悪くないわ。
あなたの故郷では……エーギルでは、よくそれを飲んだりしてたんですか?
まるっきり同じものを、ってわけじゃないけどね。
……けど、似たようなものなら、時々一緒に飲むこともあったわ。踊りの前とかにね。
きっとすごく楽しいでしょうね……あっ! わかった気がします。それってお酒で幸せになるんじゃなくて、幸せな時にお酒を飲むんですよ。
あれ? でも、外で生活してる人たちは皆お酒を飲むんですか? もしそうなら皆幸せなんでしょうか?
そうとも限らないわ。
そうなんですか。それならきっと、今の私の方が幸せですね。私に酒の作り方を教えてくれてありがとうございます、歌い手さん。早くあなたと一緒に飲みたいです!
……あなたのやり方、ちょっと違うわ。
そんなふうにすると、潰しにくいでしょ。角度を変えるの。貝殻の一番とがった場所で、海藻の筋を狙うのよ。
リズムを掴んで、呼吸を整えて……あなたの手、あなたの身体を、肌に触れる海風と一つに溶け合わせるの。
こうして――こう。一発で潰して。
……
何見てるの。まさか、またちょっかい出してくるつもり? まぁ、あなた一人なら、昨日より早く片付きそうだけど。
いいや……違う。
これ、やる。
うん……?
私の……ハープ?
トタンが、拾った。
昨日の夜……お前が、落とした。それ、あいつが、見つけた。
……
わあ、よかったですね! これで探しに行かずに済みましたよ、歌い手さん!
トタンは、これを……こっそり、家に持ち帰った。そして、俺に……これを、お前に渡せと、言った。
そのあと、トタン。行ってしまった……
そう……ありがとう。
あ、あぁ……
少し、聞かせてあげる。
あっ、その音……寝ているあなたが口ずさんでいた歌ですね。
私の頭の中でよく流れる歌なの。
これって、歌い手さんや仲間の人たちが、前に歌ってた歌ですか?
そうね……私に家があった頃、こんな歌がたくさんあったわ。私たちは歌を通じて……話をするの。
けど、家を離れたあと、他の歌声はすべて消えていった。私は一人になって……残ったのはこれだけ。
だからこの歌は、どこか悲しい感じなんですね。
……
歌い手さん、約束でしたよね! ハープが返ってきたんですから、私たちに歌を歌ってくれませんか?
みんな待ってるのれす! ね、ペトラおばあさん?
ううっ……ああ……
おばあさん、今日は話せませんけど……でも、きっとおばあさんも一緒に歌いたかったに違いないのれす。
あ……あぁ……
歌い手さん、ペトラおばあさんも聞きたいって言ってますよ。
……
わかったわ。
狩人が一人、陸へと上がる……♪
彼は故郷を背にして遠く、行くべき道は前にのみ……♪
父母と娘とはとうに逸れて……♪
恋人は既に海へ葬られた……♪
……
おや、少し表情が変わりましたね。何か感じ取りましたか?
……いえ、何でもありませんわ。
まあ、あなたの神経は未だ鈍いままですからね。目の前の水をご覧なさい。水位の昇降、波紋が生まれる頻度、乱反射する光の躍動。これらすべてが海からのメッセージなのです。
もうすぐ、潮が満ちる時です。私たちも上がるべきでしょう。
狩人が一人、陸へと上がる……♪
彼は故郷を背にして遠く、その手に残るは哀嘆のみ……♪
彼の道は果てなく限りなく……♪
彼の道は霧が垂れ込める……♪
彼女が歌っている……
この荒れ果てた家で、人々の前で歌っている。
そして人々も……彼らも歌を聞いている。
だけど、俯く人は俯いたままだし、話せない人は舌も動かないまま……そんな彼らの固まった肉体に歌声は入っていけない。でも、彼らの目は……
まさか……彼らは、この歌を理解しているの?
……
……
ペトラおばあさん?
おばあさんが、どうかしたの?
おばあさん……寝ちゃったみたいです。
こんなに穏やかに眠っているのは、珍しいです。いつもは目を閉じたかと思えば急に叫んで、じたばたしてましたから。
私……てっきり、あなたの歌を聞いたら、おばあさんは踊り出したくなるんだと思ってました。おばあさんったら、いっつも踊りたい踊りたいって言ってるのれすから。
……
ほこり……?
死にそうだ。目に……海水、入った。それに、塩からい。少しも、おいしくない。
わっ、あなた……泣いてるの?
ないてる? ないてるって、何だ?
……身体の奥底から流れ出てくる感情が、そうさせるのよ。
そう……なのか? 俺には、やっぱり、よくわからない。
……歌い手さん、あなたの歌、私はとっても好きです。あなたはあんまりお喋りじゃないですけど……でも、あなたの歌には言葉がたくさん詰まってるんですね。
あの、もう一回歌ってくれませんか? もっと聞きたいです。
……
もう一度だけよ。
食いもん……
食いもんが来た……
海岸、行く。
宣教師!