また明日 幕間
すれ違い
オリー、ちゃんとついて来るのよ……!
抱っこがいやなら、はぐれないようにしっかりお母さんの服を掴んでなさい。いいわね?
汗だらけで滑ってしまうから……手は繋げないの。絶対に服から手を放しちゃダメよ!
(頷く)
あ、あれ……コリン!? どこに行っちゃったの? ねえ、私たち本当にここから出られるの?
無理そうなら、やっぱり家に戻りましょう! こんな小さな子が、大人の足について来られるはずがないわ。
コリン――
キャッ!
こっちだ! 抜けられそうな道を見つけたぞ! 模範軍が来たおかげで、見張りの魔族どもはみんなそっちに行ったみたいだ。あとは爆発さえ避けられれば――
「爆発さえ避けられれば」ですって!? シュヴァルさんが家財を背負って雑貨屋から飛び出した時のことを忘れたの? 赤く光っている場所で転んだだけで……
こんな手のひらサイズの傷口から、体中の血が全部流れ出ちゃったのよ!
……ううん、まるで血を「搾り」取られたみたいだったわ……あれが本当にただの爆発なの?
傷が塞がらなくてそうなっちまっただけだ! 怪我して血を流さないように気をつけてれば大丈夫さ。
とにかく、引き返すのは絶対にダメだ。
さっき二百メートルも離れてないところで爆発があったばかりじゃない。わけもわからずその辺で死ぬくらいなら、家で死んだほうがマシよ。
それにコリン、あなたのお祖母様はまだ街に――
……引き返しても、状況が悪くなるだけだ。
あんたは――
封鎖エリアのサルカズが全員いなくなっているとは限らない。
あんた、外から来たってことは、救援に来た模範軍か? たっ、頼む! 俺たちを助けてくれ!
……すまないな、私は模範軍でもなければ、救援に来たわけでもない。
ロンディニウムには人探しをしにきたんだ。
人探しって……靴に穴が空くまで歩き回ってたの? だけど、今のロンディニウムで誰を探そうっていうの?
とにかく、あなたが模範軍じゃないのはよくわかったわ。あなたも私たちと同じ、悲しい境遇にいる人なのね……コリン、帰りましょう……
……
はあ。
男は大きなため息をつくと、もう一度慎重に辺りを見渡した。
長い年月を経て、彼は再び眼鏡士としてロンディニウムへとやって来た。今のこの都市は、熱気に包まれた工房でレンズの検査をしていた時のように、歪み、ぼやけて見えた。
ようやく視界がクリアになったかと思えば、目に映るのは動乱ばかりだった。このような混乱の中から、動向も読めず、面識もない者を見つけ出すのは、至難の業だろう。
あ、あの……何か必要なものはありますか? 金目のものは全部お渡ししますから、どうか俺たちをここから連れ出してください!
あなたは傷ひとつ負わず、単独で封鎖エリアまでやってきたじゃないですか。きっと安全なルートを知ってるんですよね? どうかお願いします……
痩せた男は、身体中のポケットまさぐった後、バッグの底からいくつかパンを取り出しノウエルに押しつけた。そばにいた女性も、慌てて小銭を取り出す。
……
ノウエルはそれらを受け取ろうとはせず、ただ首を横に振った。彼は思う――この三人の未来と、血を搾り尽くされた死体の間には、紙一重しかないと。
そして、自分はその僅かな隔たりから一歩引いて、これまでのように傍観しているのだと。
彼もこれまでに手を差し伸べたことはある。だが、二本の腕だけでは、全員を救うことはできなかった。
すまない……
お願いします!
コリン、行きましょう。それ以上言っても無理よ……
だけど、もう他に方法はないだろ!
……私は模範軍ではないが、彼らの居場所ならわかる。
彼らの拠点まで連れて行こう。
あっ……ありがとうございます!
だけど、私にできるのはそこまでだよ。
いえ、十分すぎるほどです! ぜひ案内をお願いします!
……コリン、お祖母様はどうするの?
すべてが終わったら、迎えに戻って来ればいいさ。魔族がどんなに残忍だろうと、療養所にいる弱ったお年寄りには手を出さないだろ――
そうですよね?
……
拠点までは送り届けるが、そのあとのことは……
君たちが自分で何とかするしかない。
もちろんです、本当に助かりました。ありがとうございます!
……気にするな。子供とはぐれないように、ついてきてくれ。
こっちだ。
ここからまっすぐ外壁を目指すといい。
爆撃でできた外壁の空洞を目印に、模範軍の一部が駐在しているはずだ。
さらに外へと進めば、公爵連合軍もいるはずだよ。どちらに助けを求めるかは、君たちが判断するといい。
ですが、えっと……
つまり、ここでお別れということでしょうか? あなたはどちらへ向かわれるのですか?
道中に何度も身を挺して命を守っていただいたのですから、せめて何か恩返しさせてください。
けっこうだ。傷ももう塞がり始めているよ。
あなたがどれほど――どれほど不思議な力に恵まれていようと、砲火は容赦してくれませんよ。やっぱり、私たちと一緒に来ませんか……あなただってヴィクトリア人じゃないですか。
……いいや。私は……ただここまで流れ着いてしまっただけさ。
探し人が見つかるまで、止まれないんだ。
その人って、いったいどんな人ですか?
道中何度も繰り返された質問だったが、初めて男の返事に何らかの感情が乗った。
男は常人なら死に至る傷をいくつも負っていたが、そのほとんどが塞がり始めている。流れた血もすぐに止まり、サルカズの法陣でさえ男の体にはなんら影響を与えられていない。
痛みだけがいつまでも男に付きまとっていた。それでも、男はこぶしを握り締めて口を開いた。
……探しているのは……
私にこの「才能」を与えた者だ。
あ……あの! わ、私たちはどうすれば……
こっちだ。援護するから、次の砲撃が来るまでに避難を――
ど――どけっ!
こんなところ、今日こそ絶対出て行ってやる!
邪魔すんじゃねぇ!
下がれ。
子供と老人の避難が先だ。
何のんきなことを――
自救軍が策定した避難ルートは最も安全なものだ。どうしても一人でどこかへ行きたいのなら……
勝手に行くがいい。
……
……失礼、君は?
私か? ロンディニウム自救軍のリーダーだ。クロヴィシアと呼びたまえ。
このエリアで避難の誘導をしている者がいると聞いたが、キミのことだな。協力に感謝する。
ここからは自救軍が避難誘導を引き受けよう。キミの使命はこれで果たされたのだ。
いや、まだ手伝える。
他の者を生かすためであっても、キミの身の安全と引き換えにはできない。
自救軍は何の見返りも約束できないからな。
いいや、君は知らないだろうが、私は――
すまないが、今は議論する時間さえ惜しい……
はあ。
手短に話そう。私は怪我をしてもすぐ治る呪いを受けた身だから、こちらの安全は気にせず援護は任せてくれ。そうすれば、より多くの人々を避難させられる。
……
どのみち、ここでも人探しを続けるつもりだからね。
最後のグループの避難も完了したな。
あの自救軍のリーダー……クロヴィシアさんはどこへ行ったんだ?
……
ノウエルはあたりを見回して逡巡すると、早足で通り過ぎようとした労働者風貌の男を呼び止めた。
君、すまないが――
いたっ!
……すまない。腕を怪我してるんだな。
手当てをさせてくれ。
そんな大袈裟なもんじゃないよ。そんで、何の用だ?
自救軍のリーダー……クロヴィシアを見かけなかったか?
彼女と二手に分かれて避難グループの誘導を行ったのだけど、いつまでも集合地点に現れないものだから。
あれ? あの人が連れてきた人たちだってもうとっくに落ち着いてるぜ。当人はたぶんまだ最後の仕上げをやってるんじゃないか?
と言っても確証はないぜ。みんな自分のことで精一杯だからな。
彼女はもう着いていたのか。
どうやら、君たちの避難経路の方がずっと安全で近道だったようだね。
俺たちはただロンディニウムの地下を熟知してるだけさ。地下が絶対に安全というわけでもないしな。
さっきの話だけど、クロヴィシアは自ら指揮を取って、サルカズ傭兵の残党による襲撃を未然に阻止する仕事があるはずだ。魔族どもの罠が怖くなけりゃ、封鎖エリアに戻ってみれば見つかるかもな。
お前さんもかなりの数を避難させた実力者みたいだし、きっと役に立てるだろうよ。
……ありがとう。
――あの! 以前に助けてくださった方ですよね!
オリーを……うちの子を見ませんでしたか? 赤毛で無口で、まだ私の膝くらいしかない子なのですが、どこかで見ていませんか?
なんだって?
うちの子が、見当たらなくて……どこにもいないんです!
おーい! オリー!
くそっ! いったいどこに行ったんだ?
オリーったら、ずっとあなたのお祖母様の話をしていたから、もしかして……あの子もお祖母様が心配で……
この辺りはもう全部探したのかい?
はっ、はい! 全部探しました! 一緒に来たみんなも手伝ってくれていますが、もう探していないのは封鎖エリアくらいで……
私が行ってみよう。私にとっては、封鎖エリアも外も変わらないからね。
いや待て、クロヴィシアが――
ああ、彼女が戻ってきたら、きちんと全員無事に送り届けたと伝えてくれ。
私も一緒に行きます!
いや、君たちはここに残るんだ。
そうじゃなくて! クロヴィシアが戻ってきたんだよ!
ほらあっちだ、赤毛の子供を抱えてるぞ――
――本当ですか? オリー……
皆が顔を上げ、労働者の指す方向へと向き直る――
その瞬間、異変が起こった。
いけない……
――全員下がれ!
……オリーよ! あれは間違いなくオリーよ!
行くな!
ノウエルは錯乱した女性を制止するのがやっとだった。
見渡す限りに尋常ならざる赤い光が明滅した直後、地面が真っ赤な口を大きく開くように崩落し、自救軍のリーダーを呑み込んだ。
無数の視線が震動する地面の中心に注がれる。震源地に立っていたその人は、最後の瞬間まできつく子供を抱きしめていた。
煙と埃が次第に散りゆき、すべてがひと時の静寂に戻る様子には、もはや馴染み深さすら覚えた。
この地にいる者たちは、これまでに何度も同じような別れを経験してきたのだ。受難者の身分によって、その結果が変わったことはただの一度もない。
ゴホッ……ゲホッゴホッ。
待て、まだ近寄っては――
こうした状況下で立て続けに起こる二次爆発や余震を、ノウエルはこれまでに何度も経験してきた。
ううっ……お、オリー……!!
……お、俺……
俺、捜索を呼びかけてくる!
あ、あなたは! まだいらしたのですね! お願いします、オリーをどうかお助けください――
あなたは魔族の罠をものともしませんし、体もお強くて勇敢ですから……せめて、せめてあの子を連れ帰ってくださらないでしょうか……
あの子はまだ、あんなに幼いんです……
……
ノウエルはその生涯において、完全に何かを掌握できたことなどほとんどなかった。悠久の生命は海のように莫大な記憶をもたらしたが、その中から一粒の記憶だけを拾い上げることなどできない。
一般的に年老いた者がそうなるように、彼もまた目の前の情景が記憶の断片と重なって、ぼんやりとしてしまうことがある。
もう十分だよ。
ここまでしか見送らせてくれないんですか? 本当に……
……残っていただけないんですか?
あの子はまだ、あんなに幼いんです……
……
一番下の子は、まだあなたをおじいちゃんと呼べてさえいないんですよ。
……長すぎた。
あまりにも長い日々を過ごしてしまったんだ。
今よりもずっと早く君の母の元へと旅立つべきだったというのに、いつの間にかこれだけの月日が流れてしまった。君の姿が、父である私より老いてしまうほどに。
私は何一つ成し遂げられていないというのに、いつまでも未練ばかりだった。延々と躊躇い続けているうちに、子供たちからすれば、まったく馴染みのない存在となってしまったよ。
いずれは周りの人たち全員にとっても、完全なる部外者になってしまうのだろう。その定めを終わらせる手段が、たった一つしかないというのなら……
今こそ、それを実行しようじゃないか。
ノウエルは爆発によって崩落した場所へと目を向けた。ぼんやりとした意識の中で、崩れた地面と瓦礫でできた空洞が、百年前の真っ暗な沼地へと変わった。
それは今日に似た早朝の出来事だった。耳元に響くのは、彼を引き留める声だろうか。子の救助を哀願する声だろうか。かつては頑なにそれを拒み、失敗が約束された死への旅に踏み出したものだ。
しかし今回、彼は同じ選択を繰り返すつもりはなかった。
……クロヴィシアさんが落ちる直前に、あの子の頭を庇ったのが見えた。
えっ、それは――
つまり、オリーは生きているかもしれないということさ。だけど無事が確認できるまでは、それもあくまで可能性に過ぎない。だから……
私が降りて探してこよう。
自救軍の助言を受けて、ノウエルは地下通路から崩れた位置を目指すことにした。彼は特異な体質と、長年の放浪で得た経験を頼りに進み続けた。
ここから西へ、三百メートルほど……
彼は軽やかに、素早く、一時も休まずに進み続ける。やがて、眼前にこれまでとは異なる光景が広がった。
異族の法陣が起動した痕跡の周囲には、陥落によって降ってきた瓦礫が山になっており、そのすぐ側に赤毛の子供が静かに横たわっていた。
(穏やかな呼吸音)
――!
ノウエルは駆け寄ると、子供を抱き上げた。そっと抱き寄せると、子供の薄い胸が呼吸に合わせて上下しているのが感じ取れた。
髪についた灰や砂ぼこりがなければ、まるで柔らかいベッドで寝ているかのような穏やかさだった。
よかった……
ひどい外傷は見当たらないし、気絶しているだけのようだな。一人で残されてはいるが、直接地面に叩きつけられたようには見えない……
間に合ったんだ。
クロヴィシアさんもこの近くにいるかもしれない。きっとオリーをここに寝かせてから――
クロヴィシアさん! 聞こえるか!?
声が出せないのなら、何か硬い物を叩いて音を――
クロヴィシアさん?
聞こえ……
数歩進んだところで、彼はその光景を目の当たりにした。
自救軍のリーダーは、体の半分が瓦礫に埋まった状態で意識を失っているようだった。
若きリーダーの両目は、かくも自然で柔らかく閉じられている。まさか、彼女はこの地中で永き眠りに就いてしまったのだろうか?
崩落がクロヴィシアにもたらした刹那的な苦痛は、数秒後に平穏のみを残して去って行ったのかもしれない。その結論に思い至ると、ノウエルはこう考えずにはいられなかった――
――!
クロヴィシアさん!!
――うぐっ!
余震で崩れ落ちてきた瓦礫は、まるで雨上がりに羽獣が勢いよく振り払った水滴のように慌ただしく至る所に飛び散り、防ぎようがなかった。
ノウエルは、クロヴィシアに近寄ってまだ息があるかを確認することさえ叶わなかった。
そんな……
激しい余震の中で、ノウエルは迷わず幼子に覆い被さり、身を挺して瓦礫を防いだ。鋭く尖った瓦礫はいとも簡単に衣服と皮膚を突き破り、骨身に深く食い込んだ。
しかし彼は微動だにせず、歯を食いしばって余震が過ぎるのを待った。
ぐすっ……
子供のぐずり声が、痛みで意識が途切れかけていたノウエルを現実へと引き戻した。
真っ暗で見慣れない場所で目を醒ました子供がパニックになって泣き出すのは、最も原初的な本能と言えるだろう。
やあ、オリー。
……もう大丈夫だ。私がここにいる……ノウエルだよ。
ゴホッ、ゲホッゴホッ……
前に会ったことがあるだろう。覚えているかい?
余震はどうやら止まったようだ。ノウエルは片手でオリーを抱きかかえながら、もう片方の手に力を込めると、背中に乗った重みを無理やり押しのけて、上体を起こして座り込んだ。
幸い、背中に乗っていたのは人を押しつぶすような重たい石板ではなく、ヒビだらけの岩にすぎなかった。それでも動く度に血の匂いが広がり、子供は暗闇の中でいやいやをするばかりだった。
オリーにはほとんど何も見えていないようだった。
……クロヴィシアさん。
彼女が君を救ってくれたんだよ……だからまずは、君を無事に外まで届けないとな。
……その後で……彼女を助けに戻ってくるよ。彼女はこんなところで眠りにつくべき人ではないからね。
ノウエルは体を折り曲げ、震える男の子を地面に下ろすと、背中に刺さった破片を引き抜こうとした。
その様子を見て、男の子がノウエルの服をぎゅっとつかんだ。
……君を置いていこうというわけじゃないよ。
(首を振る)
大丈夫、こんなことで死んだりしないさ。
……私を殺せるものなんてないんだよ。
そう言った男は微笑みさえ浮かべていた。話しながらも、彼は手探りで肩甲骨の間に刺さった最後の欠片を探し当てた。
ノウエルは歯を食いしばってそれを引き抜いた。
っ……
はは……オリー、驚かせてしまったかい?
心配いらないよ、おいで。なにがなんでも外まで送り届けてあげるから。
痛みを我慢することは、とうに骨の髄まで染み込んだ習慣となっている。ノウエルは再び男の子を抱き上げると、往路の方角を思い出しながら、二人が安全に脱出できる道を見繕った。
来た道は確か……こっちだったね。
もう少し頑張るんだよ、オリー。絶対に連れ出してあげるからね。君のご両親も外で待って――
(首を振る)
どうしたんだい?
(もがく)
おっと――
下ろしてほしいのかな? だけどこの方が安全だし、早く進めるからね。君もお母さんに会うのが待ちきれないだろう?
(飛び降りる)
……わかった。では私に掴まって、しっかりついてくるんだよ。
男の子は頷くと、ノウエルの服のすそをつかんだ。その上、まるで大人の言うことをしっかり聞いているとアピールするかのように、その小さな手の中で服のすそを絞るようにぎゅっと捻りあげた。
よし、では行こう――
……長き旅路を歩んできたのだな……
……哀れな者よ……
突如、つかみどころのない声が、周囲の瓦礫から幾重にもこだまして響いた。
暗闇の中、ベールのような霧が次第に色濃くなり、やがてノウエルを包み込む。
何故、ここに来た?
……
ノウエルがその声を聞き間違えるはずがない。
しかし、彼は体が動かないことに気付いた。勢いよく沸き上がった冷たい怒りが、体への命令を押し戻しているかのようだった。
何を望む?
やめろ。
なぜその声が今ここで現れたのか? 本能に基づく不信感が、あらゆる判断力を押しとどめていた。
小芝居はもううんざりだ。
ずっと私に会いたかったのではないのか?
ふざけるな!!
お前はいったい何者なんだ? 出てこい!
私はここにいる。キミが私を求めてやって来たように、私もキミのために現れたのだよ。
キミはただ……目を開けばいい。
……
ノウエルは声の主に会ったこともなければ、その姿を確かめる術もなかった。長らくの間、彼は伝聞をつなぎ合わせ、自身の疑問を恨みへと転化することしかできなかった。
もしこの声が幻ではなく実在しているのなら、きっと……
そうか。ならば、きっと教えてくれるのだろうね……
君のことはどう呼べば? どんな願いもかなえてくれる妖精? それとも偉大なる全知全能の護国卿かな?
歴史の裏側に潜むユニコーンは、時には妖精とされ、時には悪党とされてきた。
それらはすべて、私であって私でないものだ。
私がここに現れたのは、キミに、哀れな一人の者に、償いを約束するために過ぎない。
……
お前は私の名前さえ知らないのだね。生ける伝説からすれば、私の身の上など、これまでいたずらにひっかきまわしてきた大事件には遠く及ばないのだろう。
そうとも限らない。
かつて、キミの可能性には期待していたのだ。品種も知れぬ雑草が枯れぬ命を手に入れたならば、果たしてどのような姿に成長し、どのように周りを感化していくのだろう、と。
キミに不死を与えた時、私はそう考えていた。それは祝福であるはずだった。
フッ、「祝福」か。
その傲慢な「祝福」が私にもたらしたのは、延々と続く苦しみだけだ。
……本意ではない。
だが事実、私は苦しみ続けたんだ! そのうえ、いくら苦しもうと死ぬことはできない……
こんなものは――ただの呪いだ!
その怒りは受け止めよう。
ならば、キミに安らぎを与えるには、どうすればいいだろうか?
……ハッ。
……
また別の祝福を施してくれるつもりか?
男の子の手がさらに強く服の裾を掴んだ。
オリー……君にもあの声が聞こえるのかい?
(うなずく)
……ペテン師の声だよ。何も聞かず、何も考えるな。
もう行こう、オリー。
お前がいったい何者であろうと、手の平で踊ってくれる伝説の英雄たちと問答すればいい。私はもう付き合っていられない。
時代の荒波の中で、舵を取る資質のある者はほんのわずかだというのに。
文句でもあるのか?
……私の祝福を呪いと断じた以上、償いはさせてもらう。
願いを聞かせてくれ。何を望む?
……
この先に挽回の機会はあるはずだ……キミはすでに、他の者より多くを得ているのだから。
くっはは。
決まったか?
行こう、オリー。時間を無駄にしすぎてしまった。
……
(ノウエルの服をぎゅっとつかむ)
いい子だ。私はここにいるよ。
もしあの声が怖いのなら……気にしなくていい。あれが本当に実在しているものだとしても、ただの犯罪者でしかないからね。ほら、街で暴れている人たちと同じだよ。
君を外に連れ出した後で、私が捕まえてやるとしよう。
……
ふう……
――オリーだ! ノウエルさんが連れ帰ってくれたぞ!
おい、早く来い! みんな手を貸してくれ!
さあ、気を付けて。
下から支えるから、先に上るんだ。ゆっくり――
大丈夫です、俺が上から引っ張りますから!
さあ、ノウエルさんの番ですよ。まさかお怪我でも? お手伝いは必要でしょうか?
いいや、大丈夫だよ。
オリー! ああ、私のオリー――
本当に心配でたまらなかったのよ! 次は、次こそは絶対抱きしめて離さないから……もう絶対に同じ事は繰り返させないわ。
ふ、服についた血は……どこか怪我したの!?
(首を横に振る)
おかしいわ、どこにも傷なんてないじゃない……
(ノウエルを見る)
オリー、一緒に落ちたお姉さんはどうしたんだ? もしかしてまだ……
(首を横に振る)
下にはいないのか?
(首を横に振る)
ったく、お前って奴は……まあいい、無事帰ってきてくれて何よりだよ。
ノウエルさん、本当にありがとう!
手を振る男の顔には、焦りや動揺とは異なる表情――
困惑するほどの誠実さを湛えた、感激の笑顔が浮かんでいた。ノウエルはうなずくと、かろうじて微笑み返した。
どう……いたしまして。
しかし男は、そのままノウエルに近づくと、言葉だけでは感謝を表しきれないとでも言わんばかりに、手を差し出してきた。ノウエルは微笑んだまま、無意識にその手を握り返した。
その時ようやく、彼は次第に広がりつつある痛みを感じた。痛みは背中から胸元に、さらに全身へと広がり続けていた。急激に息が詰まるような感覚に、彼は思わず襟元をつかんで身をかがめた。
瓦礫に貫かれた傷口が、まだ塞がり始めていなかった。
――あの、どうしたんですか!?
うわっ、せ、背中が! こんなにひどい怪我をしているなんて――早く医者に手当てしてもらわないと――
ああ、取り乱してすみません! ノウエルさんご自身がお医者様でしたね……
……私が怪我をしている?
は、はい……背中の傷から血があふれてるじゃないですか! こんなにひどい傷がたくさん!
傷口は塞がり始めていないのか?
え、ええ。俺たちにとっては当然のことですが、あなたがこんなふうになるなんて……
下で何があったんですか? どうしてこんなにひどい怪我を?
それに、自救軍のリーダーもまだ下かもしれないんですよね。
彼女もオリーを守ってくれた一人ですし、俺も自救軍に何か報いるべきかもしれませんね。たとえば俺が下に行って自救軍のリーダーの死体を――
クロヴィシアだ。
クロヴィシアさんって言う方なんですね? そう言えば聞き覚えがあるような……残念ながら、お人柄を知る機会は失われてしまいましたが。
偉大なリーダーがいるとは伺っていました。
……
偉大な人だと?
ははっ……
……私には……
わからない。
クロヴィシア……私はどうやら生涯を費やして探そうとしていた者と、すれ違ってしまったようだ。
だが、そんなことはもはやどうでもいい。どうでもよくなった。痛みと息苦しさに意識が遠のきながらも、ノウエルは必死に顔を上げた。
ぼやける視線の果てには、ぎゅっと母の手を握る子供がいた。子供は見るからに健康そのもので、髪と肌の色は暖かく、眩しい笑顔を浮かべている。それはまるで……
肩につかまってください! 自救軍か模範軍の所まで連れて行きますから! きっと軍医もいるはずなので……
いや、いい……
……えっ? どうしてですか?
ノウエルさん! いったい――どうしたんですか!
しっかりしてください!
ノウエルは自分の体を支えきれず、ついに膝をつき、地面にうずくまった。まるで百年の歩みで蓄積した疲労が、この一瞬でその身に降りかかってきたようだった。
失血によって手足が冷え切る前に、彼は背中のおぞましい傷口がもたらす痛みには構わず、力を振り絞って頭頂部を地面につけるように体を丸めた。
敬虔とさえ言える姿勢となったが、それは決して誰かに祈りを捧げるためのものではない。
ほどなくして、彼は顔を上げた。
自救軍のリーダーは、下にはいないよ。
痛みも、慟哭の衝動も消え去ってはいない。しかし辺りは静寂に包まれており、ただ跳ね続ける心臓だけが、胸の中で轟々と響いていた。
幸せを感じるものが、死をもたらしてくれるものが……今はもうここにある。
今なんて?
クロヴィシアさんはそこにはいないよ。
お怪我は――
今は無益なことをするよりも……
時間を無駄にできない。できる限り多くの人を助けなければな。