聖山降臨1101 OS-10・戦闘後
我らのイェラガンドに
風雪が徐々に止んでいく。
広大で静かな雪原に、青色の湖が煌めいている。
イェラグの冬は寒く、水場は自然と凍り付くものだが、その湖は今も凍らず、その水面は鏡のように空の青さを映し出していた。
湖の中心に、一人の人影が現れた。
……ヤエル……
あなたなのですか?
エンヤ……
あの……
あなたを一体どう呼べば……ヤエルでしょうか、それともイェラガンドでしょうか?
やだわ、忘れちゃったの?
イェラガンドっていうのは、昔の人たちが私につけてくれた名前でしょ。
でも、ヤエルはいつまでも、エンヤの侍女長よ。
……
長い旅を経る中でエンヤには伝えたいことが山ほどあったはずだった。
そうした想いや問いかけたい言葉は、彼女の頭の中に溢れかえっていたはずなのに、気付けば消え去ってしまっていた。
一体何を言えばいいのだろう? 何なら言えるというのだろう?
探し求めていた友人はそこに立っており、温かなその両手が、いつものように彼女の頬と鼻先に触れた。
意外だったわけではないけど、やっぱり驚いたし、嬉しいわ。ついにここへ辿り着いてくれたのね。
ヤエル、本当に心配したんですよ……
あなたの行方もわからず、天災が起きたことで人々も混乱していて……私は巫女として、「聖巡」を始めるしかなかったんです。
たくさんの場所を歩いてきて……ようやくこの遺跡を見つけたんですよ。
ちょっと、あなた、この季節に「聖巡」をやってたの!? ど――どうかしちゃってるわよ!
私は……
あっ、ごめんなさい……侍女長である私が、巫女様に向かってこんな言い方しちゃダメね。
とにかく、無事でよかったわ。
友の声は昔と変わらず温かく、口調も前と変わらなかった。
ヤエル……
先ほど目にした光景は、すべてイェラグの過去なのですか?
ええ……あれは私の記憶よ。
もう何年前かもわからないほど昔に、私とこの土地の人たちが共に暮らしていた頃の記憶であり、イェラグが今日のイェラグへと至るまでの物語。
あなたはイェラガンドの体内、この禁域に足を踏み入れた。だからイェラガンドの目を通して、この千年以上にわたる過去を見ることができたの。
イェラガンドの体内……ここがですか?
ええ。たとえるなら、今は私の腕を登ってきて、胸の辺りにいるようなものね。
では、この湖は……幻なのですか?
もしやここが、「カランドの心」?
そうね、この湖は「カランドの心」と呼ばれるものよ。あなたが見ているのは、その千年前の姿ね。
千年前、山々の奥に隠れて、決して凍ることのなかった湖。
当時の流浪の民たちは、この貴重な水源を見つけてここに根を下ろし、子孫を増やしていったの。彼らはここを心臓と見なしたのよ。
「心臓が脈打ち、カランドの血肉を育てていく。」
だから、人々はここに祭壇を建てたのですね。イェラガンドが彼らに授けた奇跡を忘れまいとして……
私は、遺跡の中であの彫像を見ました。とても大きく、精巧なものでした。
銀心湖のそばにある、経典を参考に建てた彫像とは違って、あれは本当に「あなた」を見た者でなければ作れないものであるはず。
ヤエル……あなたは一体、何者なのですか?
んー……それを語るのは、頭が痛くなるほど難しいことなのよ。
私は随分と長い間、自分の身体が、山と変わらないくらい大きいということしか知らなかったの。
そして、この大地には、かつては私と同類のものがたくさんいて、あの暗闇が訪れる前には、そうしたものにも、昔存在した生命から与えられた名前があったのよね。
「巨獣」、「惑星の子」、「大地の主」、といったように。
まあ、そういう同類に比べれば、私の年齢なんて若いほうよ。具体的には、あなたたちの中で最古の文明と同じくらいね。
私としては、自分のことは単に「生命」として捉えたいと思ってるの。イェラガンドという名前も気に入ってるしね。
だけど残念なことに、私は皆が求めていたような、すべてを支配できる「神」ではないの。
それでも、人々はあなたを神と見なしてしまいました。あなたが定めた戒律を信じ、あらゆる禍福をあなたのせいにして……
そして、あの巫女たちも……
私にとっても、あれは本意じゃなかったわ。
以前私が深い眠りに就いた時に、私がいなくなったことで皆を怯えさせてしまったようで、彼らは私を探し目覚めさせようとするあまり、道を誤ってしまったの……
私がこの場所を封印したのは、あの長い間続いた過ちのことを忘れさせたかったからなのよ。
もちろん、わかっています!
だってあなたは、邪悪でも陰険でもないですし、無辜の少女が目の前で凍えていくのを見て笑うような悪人ではありませんから……
エンヤは、頬に触れる温もりに手を伸ばし、握り締めた。
私は皆が必要としていた神ではないし、戒律を定めたこともないのよ……
だって、私も理由もなくこの大地に生まれた生命の一つでしかないんだもの。人が生きていくすべを授ける知恵なんてあるわけもないわ。
だけど、人の姿で人々と共に歩いていた時に、思いがけず気付いたこともあったの。それは、あなたたちは小さくか弱いけれど、生まれた時から、ある本能的な力を――
互いに助け合い、あらゆる困難を乗り越えて、この険しい大地を生き抜いていくための力を持っているということだった。
あなたたちの言葉では、「美徳」と呼ばれる力よ。
そう……だったのですね……
私はあなたたちの導き手ではないし、むしろ、私に生命の意義を教えてくれたのはあなたたちのほうだった。
イェラガンドという名前や、イェラガンドという存在が象徴するイメージは、人が作り出したものなのよ。
だけど私はそれを嘘の存在だなんて思わないわ。だってそれはイェラガンドという名を使って、あなたたちが元々持っていた力を見える形にしたものなんだから。
きっと……それこそが、あなたの探し求めていたイェラガンドなんだと思うわ。
「主は仰られた。我が道は、突き詰めれば汝らの道であると……」
人々が主のお姿を追い求めるのは、結局のところ、自分自身を理解するための手段に過ぎないのですね。
けれど、人々の歩む道は得てして平坦ではなく、大抵の場合、彼らは目を回した駄獣のように、その場をぐるぐると回り続けてしまう……
イェラグの民はかつて、あなたを皆の元へと連れ戻し、我々の信仰もまたそれを経て安定したといいますが……
……
ヤエル……今回も、戻って来てくれますか?
エンヤ……
多分……今回は、これ以上あなたのそばにはいられないと思うわ。
……約束したじゃないですか。
私が理想を失わない限り、いつまでも私の侍女長であり続けてくれるって。
エンヤ……聞いてちょうだい。
今回ばかりは、約束を破ることになってしまうかもしれないけど……私は一度だって、あなたを騙そうと思ったことはないのよ。
あなたは私の友達だもの。千年以上の歳月を生きて、無数の人々と出会う中で得た、たった一人の友達……
私も、あなたとずっと一緒に居たいわ。あなたの時間が終わるまで……本当は、いずれ残されて別れを受け入れないといけなくなるのは、自分のほうだと思ってたくらいよ。
ですが……何があったんですか?
どうして、あなたと離れ離れにならないといけないんですか……?
永遠に時間を共にすることなんて、できないものよ。別れはいずれ誰にでも訪れるものだから。
私の番が来た……それだけのことよ。
……
でも私は、こんなに早くこの日が来るのは嫌なんです。
どんな物事も、起きるべき時に起きるものよ。
あなたは、私を呼び探し求めていたあの子たちとは違う。無力に翻弄され、私の返事を待つことしかできない少女ではないでしょう。
……私も初めは、その人たちと同じでしたよ。
だけど今では、自分の意志で旅に出たじゃない。
あなたはもう、自分の心の中から解決策を探し出す力を持っているのよ。だから私の知らない苦難や、私では力になれない危機を乗り越えて――私の前までたどり着けたの。
ね、私の大事なエンヤ。
今のあなたは、柵を跳び越える力を持った小さな駄獣。縛られない自由な心を持ち、賢く機転が利いていて、そのうえ初めて悔しさと憤りを胸に巡礼に来た巫女なのよ。
カランドの雪は高く遠く、折り重なる雲のように白かった。山風が峡谷の奥から吹き渡り、イェラグの地を優しく撫でていく。
雪が風に吹かれて舞い落ち、春の日差しに溶けて、カランドの渓流から湖に流れ込み、土の中へと染み込んでいった。
それはやがて烈日の熱で蒸発し、その霧は天へと帰っていって、雲の層を作り、再び新たな雪となる。
二人の手は固く握られ、寄り添うことで生まれた温もりは、その身体の中で小さく暖かな火種となった。
さあ、行きなさい。
……どこへ行けばいいのでしょう?
暗い影を取り払い、新たな明日を切り拓きに行くのよ。
……
……
その時、長い夢から覚めたように、幻は消え去った。気付けば彼女はなおも薄暗い洞穴におり、そこに高くそびえる彫像を遠く仰ぎ見ていた。
……暗い影を取り払い、新たな明日を……切り拓く。
雪が彼女の周囲を舞い、風に吹かれて散っていく。
そんな中、ひとひらの雪が彼女の手のひらに落ちた。枝分かれした六角形の結晶は欠けたところが一つもなく、完璧な形をしていた。
それは融けることもなければ散ることもなく、千年の間この地を離れずにいた守護者の如く、静かに待っているように見えた。
もう、返事も聞かずにこんなものを押し付けて……私が目立つのを嫌うことくらい、知っているはずでしょうに。
本当に勝手なんですから……
あっ――!
二人とも、目が覚めたんだね!
あれ……あたし、気を失ってた?
そうだよ! エンヤがあの大きな彫像に触れたあと、二人とも気絶しちゃって――五分くらいそのままだったんだから。
五分……それだけしか経っていなかったのですね。
あなたたちも……見ましたか?
見ました!
すごく怖い夢を見たんです。夢の中で獲物を追ってたら、あたしの病気が急に悪化して、腕が全部石になっちゃって……
だけどその時、夢の中にイェラガンド像そっくりの人が現れて、あたしの病気を治してくれたんです。
しかもその人、「石塊病はイェラガンドの与えた罰なんかじゃないし、自分を責めないで」って慰めてくれて――
巫女様! あの人はきっと、イェラガンドなんですよね? あたしたち……イェラガンドにお会いしたんですよね?
ええ……きっとイェラガンドだと思います。
何の話? どうして私だけ何も見えなかったんだろ?
気に病むことはありませんよ。
主は、我々一人一人が必要とする答えを与えて下さっただけですから……
エンヤ……私……
これまでにした推測と計算を、修正しないといけないのかも。
イェラグに千年の間天災が起こらなかった理由が、特殊な鉱脈のせいじゃないとしたら……私たちがこの洞窟で見たものと合わせて考えると、もしかしてと思ったの。
「巨獣」なんていう、私たちの科学体系とは相容れないものが実在するなんて、いまだに信じられないけど……
……間違った答えをすべて排除した末に残された唯一の可能性は、どんなに信じがたくても真実だと思うから。
エンヤ、教えてくれない?
キミが見たイェラガンドって、一体……
……
巫女は手を伸ばすと、告解を求める信徒一人一人にそうしてきたように、当惑するエレナの頭をそっと撫でた。
私にはまだ、人々の心の中にあるイェラガンドとは何かを、科学的な言葉で伝えることはできませんが……
科学者たる者、「未知」を恐れてどうするのですか?
私は恐れてなんか――
もしかすると、「イェラガンド」は科学と相容れない存在ではないのかもしれません。
あるいはあなたは、これまでの科学では踏み込めなかった領域の一端を暴いたと言えるかもしれませんよ。
……っ、大変!
どうしたのですか?
私たちが山を登ってる間に、天災の警戒レベルがまた一段階上がってたの……
つまりはこれから三時間以内に、72%の確率で、イェラグ領内で二度目の天災が起きるってことだよ。
すぐに避難指示を出さないと――
それでは間に合いません。
……私にはまだ、もう一つやるべきことが残っています。
待ってよ、どこ行くの?
エレナとジョアンナはエンヤの後に続いて、今来た道を駆け戻っていく。
洞穴の入り口で、三人は再び見覚えのある人影に出くわした。
その老人は、ほんの少し見ないうちに、不思議と十歳以上老け込んだように見えた。
私は見た……
主の存在を……主の足跡を……
罪深き不信心者は、私だったのだ……
身体中の力が抜けてしまったかのように、長老は音を立てて地面に膝をついた。
……
……かつて身共は、とある友人と共に、愛と苦しみゆえの葛藤に耐えながら、雪山で朝日を待ったことがありました。
我々の歩んだ道のりは、カランドへ登るこの道よりもずっと長いものでした。
あなたは……
巫女の指が老人の額にそっと触れ、左から右へと、軽く弧を描く。
その指先が彼の白髪交じりの眉をなぞると、まだ溶け切っていない雪が滲んで広がった。それはイェラグで最も敬虔な修道士が、生まれたての赤子のために穢れを払い、祈りを捧げてやる時のようだ。
身共は……服のほつれを直すときにすら作法を聞いてきた彼女のことを、今も覚えています。
民は如何にして救われ、秩序は如何にして機能するのか……あなたが知らぬ間に、主も……あなたから学びを得ていたのです。
主はあなたの行いすべてを見つめ、正しき道も誤った道もあなたと共に歩もうと望んでいらしたのですよ。
主は、あなたの意義を否定したことなどありません。
……
巫女として、身共はあなたの告解を聞き届けました。主に代わり、あなたの不信心の罪を赦しましょう。
我らのイェラガンドに。あなたは今、主と共に歩んでいるのです。
老人の目からは涙が止めどなく零れ落ちて、溶けた雪のように土の中へと染み込んでいく。
かつての私は、確かにあなたと、このイェラグという国を侮っていたと認めざるを得ないわね。
あなたの背後にある戦艦は、この十数年心血を注いで国を治めてきたことで得た成果なのでしょう。
どういう心境の変化があって、この「秘密兵器」を衆目に晒したのかは知らないけれど……
どうあれ、この大地でこれだけのことを成し遂げる人間がどれほどいるでしょうね?
あなたは称賛に値するわ。
ご評価いただいたことに感謝いたします。しかし、私にとってより感慨深く思われるのは……
今日のヴィクトリアが、かつてのような強大な帝国のままであったならば、あなたはイェラグのような小国から搾取しうる利益など眼中になかっただろうということです。
かつて宴席で傲慢な若者が発した予言が、寸分違わず的中するなど誰に想像できたでしょうか。
結局のところ、ヴィクトリアを衰退の悲劇から救うことは誰にもできなかったのですね。
歴史の流れの行き先を見極めることは難しくないけれど、その流れを変えるには、人の力では及ばぬ時運が必要となるものよ。自分の先見の明を誇りに思うことね。
私はあなたの才能を軽んじたことはなかったわ。実を言うと、これまでの間に想像しなかったわけではないの。当時あなたをヴィクトリアに留めていたら、今頃どうなっていたかとね。
カスターの名を冠する将軍となっていたか、あるいは名を轟かす侯爵になっていたか――その限りではなく、あなたが将来成し遂げることを私は阻みはしなかったでしょう。
どうあれ、今よりはずっといい状況になっていたことでしょう。
公爵閣下が本当にそうお考えなのでしたら、今からでもそうしたお誘いをお受けする機会があればと存じますが。
冗談はやめてちょうだい。本気にしてしまうわよ。
ふっ……
きっとあなたは心の中では、あらゆる恨み言を連ねて私の卑劣さと狡猾さを呪っているのでしょうね。
いいえ、そのようなことは。賭けに乗ったからには、仮に負けても潔く負けを認める心構えは、このゲームに参加する者すべてが持っておくべきものでしょう。
ましてや、閣下からすれば、これは長年にわたるイェラグとの取引においてヴィクトリアが得るはずだった利益を取り戻しに来たに過ぎぬこと。
いずれにせよ、感謝申し上げます。閣下が自らこちらへお出でになり、私との契約を結んでくださることは、イェラグにとってこの上なく貴重な機会です。
ふふっ……貴重な機会、ね。
本題に入りましょうか。あなたがここへ来たことは、条約の内容すべてに同意したと受け取って構わないわね?
いえ。契約の具体的な条項についてはいくつか異論がございます。
あら……この期に及んで交渉するつもりなの?
まあいいわ、聞かせてもらいましょうか――どんな条件をつけたいの?
閣下は、カスター領とイェラグの共同で採掘場を設立し、源石と異鉄を含むイェラグの鉱物資源中40%の採掘に参入したいというご意向でしたね。
私はその数字が80%であっても構わないと考えております。
ふうん……?
イェラグには双方の発展需要を満たすだけの、十分な鉱物資源がありますので。
ヴィクトリアからは、援助の名目でイェラグに採掘設備、及び専門技術者による技術訓練を提供していただきます。イェラグはヴィクトリアからの労働者や技術顧問の派遣を歓迎いたしましょう。
ですが……ヴィクトリアの軍人がイェラグ領内に踏み込むことは、今後一切認めません。
……
加えて、そちらの契約書には「鉱物資源の採掘によって得られる収益の分配は、ヴィクトリアとイェラグで対等に協議する」とありましたが、こちらも認められません。
イェラグは領内の全資源に対して絶対の主権を有しており、ヴィクトリアにはそこに干渉する権限はないからです。
とはいえ、ヴィクトリアからの援助への見返りとして、イェラグは比較的優遇した価格で貴国に商品をお売りしましょう。
無論、あなた方が援助に見合う対価を得るには、イェラグからの輸入量が十分でなければなりませんが――この必要水準についても、イェラグ側で決定させていただきます。
やめなさい、エンシオディス……
そうして無暗に駄々をこねるのは、敗北を認める上では体裁が良いとは言えないわよ。
私はこの「グロリアーナ」号に乗船してから今までの間に、「敗北を認める」と言った覚えはありませんが。
ふっ……
そんな妄想じみた条件を、私がどうして飲むと思うの?
閣下ならば、きっと応じてくださると信じているのです。
……これは一体……
これこそが、本日閣下との交渉に臨むべく用意した交渉材料です。
僭越ながら申し上げますと、そもそも武力によって双方の協力形態を決めることは合理的ではない、と我々は考えております。
ですが、閣下が受け入れてくださる交渉方法は、このほかにはないのかもしれませんね……
なんだ!?
砲撃を仕掛けてきたのは何者だ!?
まさかあの戦艦か! くっ、一隻だけでこれほどの火力を……!?
そ、それが……!
山中から砲撃して来ているようです!
さあ、続けて!
キリキリ動きなさい! あのヴィクトリア人どもに息つく暇を与えちゃダメよ!
このデカいの……装填はこれ以上早くできないの?
はっ、申し訳ありません!
ウース、まだそんなふうに動き回っちゃダメだろ……身体を労わらないと……
うるさいわね!
にしても、エンシオディスのやつ、こんな素敵なものを山に隠してたなんて。やっとチャンスを掴んだからには、存分に楽しませてもらわないとね!
あんたたち、あたしの指揮通り動きなさい。なんなら、カスターの旗艦目掛けてブチこんでやりましょ!
イェラガンドのご加護がどういうものか、見せてやるのよ!
ですがエンシオディス様は、カスター公爵の艦隊を威嚇することのみをお命じになられたんですよ。ましてや、エンシオディス様ご本人が「グロリアーナ」号にいる状況ですし……
計画に沿って動いていただかなくては。
もう、わかってるわよ。ほんと冗談通じないんだから。
……だけど、これがお姉様とエンシオディスの隠していた秘密だったのね。
あなたもさすがだわ、ヴァイス。ヴィクトリアの奴らはそこら中をひっくり返して秘密の武器庫を探してたのに、実はそれがイェラグ中の物流用車両の中にあったなんて。
ラタトスのやつ、あたしにまで秘密にしてくれちゃって。次に会ったら絶対タダじゃ済まさないんだから。
これは、私がエンシオディス様から託された……最重要任務だったんです。
ここにある兵器は――その存在も、規模も、イェラグの最重要機密となっています。今この瞬間も……
ですからやはり、この秘密は守らねばならないのです。現状、我々の持つ最大の切り札は、ヴィクトリア側がこちらの戦力規模を少しも把握していないことそのものですから。
我々の任務は、カスターの判断を混乱させることです。
何しろ、カスターの艦隊があと一歩でも前に踏み出してくれば、何が起こるかは誰にもわかりませんから。
今の状況くらい、いちいち説明されなくたってちゃんと理解してるわよ。
ラタトス……今回は、ちゃんと自分の身を守ってよね。
(耳打ちをする)公爵様、向こうの砲撃位置は依然として掴めません。
艦隊の全艦に向け、防御態勢を取るよう通達は済ませており――
それ以上の報告を聞く必要はないでしょう。閣下は今この瞬間、カランド山にそちらの全艦隊を沈めるに足る大砲が配備されているということだけを知っていてくだされば十分です。
この艦隊は、もはや砲火の射程圏内にあるのです。
……たった二発の砲弾で、この全艦隊を打ち破るだけの力があると信じろというの?
D5号、東側二百メートルへ。
エンシオディスが言い終えるやいなや、一発の砲弾が正確に「グロリアーナ」号の船体東側に落下して、爆風が二人の衣服をはためかせた。
……
どうやら、これ以上の証明はいらないようですね。
……これほどの兵器となると、あなたたちが独自に開発したものではないわよね。
あなたに手を差し伸べたのは誰? ゴドズィン? あるいはノーマンディーかしら?
事ここに至って、それが重要な問題と言えるでしょうか?
閣下にイェラグとほかの盟友との協力を断つことができるように、イェラグもほかのパートナーを探すことができるというだけです。
まったく、手の込んだ計画だこと……
これはやむを得ず取った戦術に過ぎません。
限られた時間でイェラグの軍備を整えるには、艦隊以外に焦点を当てるほかなかったのです。
仮にあと十年あったとて、イェラグが閣下に対抗しうる艦隊を組むことはできないでしょう。
ですが、閣下は強大な艦隊を所有するがゆえに、見落としがおありのように思います。戦場においては、戦艦同士の砲撃戦だけが戦いではないのですよ。
イェラグが求めるのは他国の利益を奪うことではなく、自衛のみです。それゆえ我々には、高速戦艦よりも適した選択があるのです。
この地の山々は天然の防壁であり、その山体に築いた砲火による防衛線は、あなたには決して越えられぬ要塞を築くことでしょう。
しかし、これほどこちらが優位となったのは、閣下がこの「交渉」を最初から決まっている降伏の儀式として扱ってしまったからこそではないでしょうか。
ふん……
つまり……あなたは、今日ここで私との全面戦争を行う心づもりだということかしら。
そのようなことはありません。
そちらの艦隊が戦争を目的にイェラグを訪れたのではないように、私が今日この戦艦を訪れたのは、交渉を成立させるためだけのことです。
こちらでも契約書を用意し持参しましたので、ぜひご覧ください。ヴィクトリアとイェラグの対外貿易関税及び、採掘場の共同開発などに関する条項が記されております。
閣下がこちらに署名してくださるのなら、イェラグはあなたがヴィクトリアへお帰りになる際の安全を保障いたします。
今度はこんなやり方で私を脅そうと言うの?
交渉の席で過度に攻撃的な主張をしていると、かえって自分の底の浅さをさらけ出してしまうわよ。
ここであなたの虚勢を暴き、艦隊に前進を命じた場合は、目も当てられない事態になるでしょうね。
そうなることがあれば、残念と言うほかありません。
私自身、本日この交渉へ足を運ぶ前、そうした可能性は考えていました。
しかし、後世において、「カスター公爵は無名の若造共々雪の下に葬られた」などと語られるような事態となれば、それはカスターにも、果てにはヴィクトリアにも恥ずべきこととなるはずです。
その一方でイェラグは、私の後にも数多の人々が事業を引き継ぎ、誰からも侮られることのない国へと発展していくことでしょう。
……
この不平等な契約を受け入れることが、閣下にとって苦しい選択であることは承知しております。
そこで、30分ほど決断の時間を差し上げましょう。ただし、1分ごとに契約書内の全エネルギー物資の価格を1%引き上げさせていただきます。
これは拒絶の許されぬ条件です。この土地を侵したのはあなた方なのですから、その代償として然るべきでしょう。
ああ……!
こ……こんなに血を流して……
……デーゲンブレヒャー!
救急治療が必要だ。この場所に、もっと包帯はないか?
すぐに探してくる!
デーゲンブレヒャーさん……どうしてここまでの重傷を……
一人で十七人もの「グレーシルクハット」を相手取っていたからな……大したものだ。
奴らは一時撤退したことだし、この先は俺の小隊が彼女に代わりここを守ろう。
ですが、外にはまだあれほどたくさんのヴィクトリア軍がいるんですよ……一体どうやって……
任務完了までどうにか持ちこたえるまでだ。
そんな……
このままでは、もっとたくさんの人が傷ついてしまう……
なに? 外でまた物音が……
もう一度確認いたします。ご命令は……蔓珠院の正面突破でよろしいですか?
正面突破を行った上で、拉致されたヴィクトリア公民を救出。
……そして、イェラグの重要軍事機密を所持している可能性のあるターゲット、ラタトスを捕縛せよ、と。
……了解しました。
……
全隊に告ぐ。実弾を装填せよ。
蔓珠院へ突入する。
あなたは……
この先はイェラグの聖地でございます。何人たりとも、みだりに立ち入ることは許されません。
どうかお引き取りください。
怪我をしたくなければ、退いてくれ。これは命令だ。
……命が惜しくはないのか?
皆様が命令に従いここへいらしたのと同様、我々もイェラガンドのご意志に従いここへやってきたのです。
お互い、己の心に従って、成すべきことを成しましょう。
もし……あなたにまだ私の声が聞こえるのなら。
そしてもし、あなたが今もこの地に生きる人々を愛し、彼らへの慈悲を抱くイェラガンドであるのなら……
親愛なるイェラガンドよ、最後に私の祈りを聞いてください。
これまで私は、答えを追い求めてきました。イェラグをイェラグたらしめるもの、そして我らを我らたらしめるものは何なのかと。
もしかすると、あなたの存在はその答えでこそないかもしれませんが……小さくも喜ばしい奇跡であることは確かだと思います。
あなたがこの地に残したものは祝福であって、決して束縛などではないと、私は信じたいのです。
千年以上もの間、あなたはイェラグの文明の成長に寄り添い、慈悲深く賢明な師であり続けてくれました。
これから先の千年にわたり、この地の人々が山を動かし、海を埋め立て、空に触れるほどの力を持つに至っても、彼らはあなたの名を語り継ぐことでしょう。
我らはあなたの善良さを胸に刻み、あなたが共に在ることに感謝しながら、あなたの加護を手放すことにします。
どうかあなたの代行者として、最後に一度だけ、私にイェラグを守らせてください。
これが私からの……最後の祈りです……
彼女の手から光が迸り、温かな力が天地に荒れ狂う風雪を鎮めて、この太古の地に流れる時間までもを静止させた。
空に集まっていた天災雲は散り始め、この大地で最も恐ろしい災いが、この瞬間、それよりも大きな力の前に屈した。
雲が割れ、虹色の光が差し込んで敬虔な少女を優しく包み込む。
風が止んだ。
天災警報だ……!
タイミングが良かったな。設置したばかりの天災警報装置が役に立つとは!
すぐにイェラグの公的機関に避難要請の連絡を……まずい、この危険レベルだと――
なんだ? 警報が……止まった?
どうなってるんだ? 源石エネルギーが急激に落ちていってるぞ……観測装置が壊れたのか、それとも……
ああ、我らのイェラガンドに……
……
老人はふらつく足取りで険しい山道を辿り、山の奥へと向かっていた。彼は、自らを追放しようとしていたのだ。
そして老人は、断崖のふちで足を止めた。
なぜ命を捨てようとするの?
私はこの生涯を、自己欺瞞の嘘の中で生きてきた。
本来、主に仕える身でありながら、私は主を欺き、自らをも欺いてきたのだ。
私の傲慢と不敬が、私をこの罪と欺瞞に満ちた、気高さの欠片もない道へと追いやった。
私は……己の罪を赦せない。ゆえに私は、この罪深い生涯を終わらせるしかないのだ。
だけどここで飛び降りたとして、雪山はあなたを埋葬するだけで、あなたが犯した過ちを覆い隠してはくれないわ。
悔い改めるのに遅すぎるということはないのよ。いつであれ心の底から悔い改めることができたなら、それは新しい始まりになる……
ちょっとうろ覚えなんだけど……イェラガンドはそんなことを言ってなかったかしら?
イェラグで一番博識な長老たるあなたには、まだまだたくさん出来ることがあるでしょう?
あなたは……
突然空が晴れ渡り、強い日差しが老人の視界を奪う。
雲を裂く一筋の光を見た彼は、胸が焼かれるように感じた。
あれは……神の奇跡か……
エンヤ、今回のことも、この先のことも、これで本当に、あなたに託すわ。
ごめんなさいね……時が来たら、また会いましょう。
最終通告だ……これはイェラグ市民を対象とした作戦ではない。無関係な人間はただちに退避してもらいたい!
協力を拒むのであれば、あなた方の安全は保証できかねる。
指揮官はその場の人々に向けて厳しくそう警告し、手元の武器を高く掲げたが、誰一人動揺を見せる者はいなかった。
それどころか、そこにはますます大勢の人が集まってくる。
修道士や職人、駄獣飼い、商人……彼らは自発的に軍人たちの前に立ち、沈黙の壁を作り上げていく。
そして、そんな群衆の中から、一人の女性が手を挙げて、軍人たちとの間に歩み出た。
その背後からは、ロドスの制服をまとったオペレーターが数名続いてくる。
私が、あなたたちの言うところの「人質」です。
イェラグの人々は私を拉致してなどいません。私を包囲したのも、ヴィクトリアの所業を示す証拠を隠滅しようとしたのも、私を守ってくれた人を傷つけたのも、ヴィクトリアの工作員です。
あなたたちが奪おうとしている証拠のすべては今、あなたたちの手の届かない場所に隠してあります。そちらがこれ以上行動を強行するようなら、その証拠はただちに公開されることになりますよ。
これでもまだ、私の声を消し去ろうと思うのならお好きにどうぞ。
ですが、こうした行為を――高尚な旗印を掲げながら他国の領土で犯した罪を、永遠に隠し通すことなどできませんよ。
我々は先進的な文明などではなく、単に嘘をつくのが上手いだけの詐欺師でしかないんですから。
こんな茶番は、終わりにしましょう。
なっ……
その時、くすんだ色をしていた空が突然明るくなり、誰もが思わず空を見上げた。
瞬く間に雲は消え去って、その代わりに天を横切る虹が現れた。
それに伴い、人々の心の中にあった暴力性や不安までもが消えていく。
まばゆい陽光は、人々に行いを改める機会を与え、またその威を以て制しているようでもあった。
兵士たちは我知らず、構えていた武器を下ろしていた。
残された時間は多くありません。
このまま待ち続けたとて、局面が変わることはないでしょう。
公爵閣下、ご決断をどうぞ。
ふと思い出したの。あなたの言っていたことを。
一つに団結した国が、どれほどの力を発揮するか――それを私は想像できないと言ったわね。だとすれば今日、私はそれを目の当たりにしたということかしら?
今回ご覧になったのはほんの一面に過ぎません。この国をより深く理解していただく機会がまだありましたら、さらに多くの驚きがあることでしょう。
これは私がヴィクトリアを離れて以降、随分と後になってからようやく理解した問題でもあるのですが……あるいは閣下のご質問への答えになるかもしれないと思い、提示いたします。
――かつて偉大だった帝国は如何にして衰え、貧しかった土地は如何にして興隆したのか。
その要因として、国家の政治体制や制度、そして指導者が誰であるか――たとえば、獅子王なのか議会なのか、巫女なのか名家の長なのか、といったことも挙げられるかもしれません。
確かにそうしたことも重要ではありますが、最も肝心なのはいつの時代もやはり「人」なのです。
どれほど偉大な航行者も、故障を抱えた船ばかりで構成された艦隊を率いて前進することはできません。それと同じく、個の力のみで国家の命運を変えられる指導者も存在しないのです。
その言葉は、あなたの振る舞いとは矛盾しているように思えるけれど。
あなたは、たった一人でイェラグの命運を変えようとしているのではなくて?
それは私がこの地の人々を、信仰を持つ民を信じているがゆえのことです。
閣下は以前、あらゆる手段を講じて、イェラガンドという神秘の力が本当にイェラグを守護しているのかどうかを確かめようとなさっていましたね。
ご覧の通り、今あなたの前に立ちふさがるものこそが、「イェラガンドの力」なのですよ。
ふふっ……やっぱりあなたは変わらないわね。
相も変わらず意気軒昂で、目が覚めるほどの才気に満ちているわ。
あなたが仕掛けたこの勝負には、私も欺かれたけれど……今回ばかりは、あなたを凡庸な輩のように見なして見逃す気はないわ。
だから……
……あら?
あれは……何?
甲板にいる人々は遥か遠方を見つめた。
彼らの目に映るのは、空に浮かんだ分厚い雲が、何らかの神の力によって引き裂かれたかのようなその裂け目と、光に包み込まれる古き聖山の姿だった。
それは息をのむほどの、そして人に畏敬の念を抱かせるほどの、美しい絶景だった。
あの光景は、神の怒りの表れか、それとも慈悲の表れだろうか。
信仰を持たない人々の脳裏には、「神聖」という言葉が浮かぶことはないのかもしれないが、どういうわけかこの瞬間、全員の心に同じ感情が芽生えていた。
「この地は侵してはならない浄土だ」と、そう訴えかけるような感情が。
公爵様……以前の情報では、「イェラガンド」はイェラグから消えたという話でした。
しかし、だとすればこの空の異常現象が何なのか、見当もつきません。
如何いたしましょうか?
本来は、この勝負を最後までやり遂げるつもりだったけれど……
残念なことに、たった今彼らが勝利の天秤に最後の分銅を加えた以上、それがどちらに傾くかは想像に難くないわね。
……ほかに手など打ちようもないわ。
撤退しましょう。