辞歳行 TA-10・戦闘前
鎮神頭
望日
黄砂が空を舞い、日差しを弱める。
巨大な影の中でしゃがみ込んだズオ・ラウは、顔をあげて玉門の方を望んだ。屏風衛、排砂溝、露わとなった砲口……
都市そのものが、歳の陵墓の方角へゆっくりと前進していた。
玉門が動き始めたのは事実でしたね。
しかし……一体何故、陛下は歳獣が目覚めてもいない現段階で進攻を命じられたのでしょうか。
僅かな逡巡が彼の動きを留めている間に、玉門は身を伏せた持燭人の目前まで迫っていた。
ほどなくして、彼の視界から道は消え失せ、地面に対してほぼ垂直に切り立つ城壁だけが残された。
この排砂溝から逃げ出そうと言うのか? そこまで軽功を極めたという自信があるのか? 何より、今出て行けば……
……まあいい。選ぶのはお前だ。
傷が重いからといって処罰から逃れられると思わんことだ。お前ひとりでふざけた真似をするだけならまだしも、チンピンまで巻き添えにするとは何事か!
将軍、ズオさんは――
庇い立ては無用だ。
意気揚々と跳び下りる前に、登る方法を考えるべきだったのだ! 血気に逸って、己の力量を示すことばかりに固執し、周囲の者を振り回してなんとする!
……
戻って大人しくしていろ。傷が癒えたら、自ら罰を受けに来い。
玉門の外壁があと数丈の位置にまで迫る。
ズオ・ラウは思い切りよく跳び上がった。常日頃から称賛されてきた軽功が、唯一の頼みの綱だ。
排砂溝が閉ざされ、屏風衛もすべて高々と掲げられているので足場にはできない。滑らかな外壁では勢いをつけるのが極めて難しく、しくじれば一巻の終わりだ。
中腹までは、壁を蹴って勢いを得ることができた。だがそれより上は、千鈞の重みが圧し掛かる。
急げ……
あと少しで、飛散する黄砂越しに城壁の上に立つ将兵の影が見えるだろう。
彼らの多くはこの城壁でどれほど長く任を果たしてきたのか、すでに忘れてしまっている。
そして今回、突如鳴り響いた角笛の音によって彼らは否応なく残りの人生すべてを、来たる狩りのために差し出すことになった。
もっと急ぐんだ!
より高みへ到達するにつれて、思考は却って澄み渡り、足取りも確かなものとなっていく。
それでも、外壁の頂への道のりは決して平坦ではなかった。
歳の陵墓まであと十五キロ、ここからでは歳獣の動向はこれ以上掴めません。
司歳台からの知らせがありませんが……上は本当に砲撃命令を下したのですか?
――いえ、そのようなことは決してありません! はっ! 了解いたしました!
……
誰だ――
失礼。
……!
動かないでください。
誰か、曲者が――
……避難はとうに済んで誰もいません。どうぞお好きなだけ叫んでください。
なぜ知っている。一体何が目的だ?
朝廷の特使です。玉門が独断で動いた件についての調査に参りました。
朝廷の特使だと? この間、一団が来ているぞ。お前みたいな不審者が使者に成りすまそうってのか?
(来ている?)
正真正銘の特使に決まっているでしょう。この服に見覚えはないのですか?
でたらめだ! あの人たちが着ていたのはこんな服じゃなく、きちんとした朝廷の役人の格好だったぞ!
……兵部ですね。
なぜ分かったんだ!?
兵部からの特使が玉門に入って間もなく、発進の命が下った。そうですね?
ズオ将軍はその出来事の後に姿を現しましたか? 大戦が始まろうとしているのですから、いつもの将軍なら、自ら城楼に立って陣太鼓を打ち、士気を鼓舞するはずです。
……お前、本当に朝廷の者なのか?
もちろんです。
見かけてないな。今回の進軍命令も確かに妙だ……だが、ズオ将軍以外にこんな命を下せる人もいないだろ?
……なるほど、わかりました。
すでに手首の縄は解きました。今すぐ城楼に戻れば、疑われる可能性がありますので、しばらくここに身を潜めているのがよろしいでしょう。では、失礼します。
兵士が痺れた手で目を擦る。軽功で去っていったその少年の姿に、どこか見覚えがあるような気がした。
……父上。
ラウ!? どうやってここまで来た!
排砂溝を登って――いえ、それはさておき……
無事ならいい……
父上、兵部の方はどこに?
……彼らに何の用だ。
歳の陵墓への進軍、及び砲撃命令。これらは父上ではなく、彼らが下した命ですね?
だからこそ父上はここでたった一人、軟禁されているも同然の扱いを受けているのでしょう?
口を慎め。軍事について軽々しく論じることは――
父上! 太尉がこのような強硬策に出たのは、陛下のご意思を無視し、歳獣に直接砲撃することで戦端を開こうと目論んでいるからです!
太尉は私利を図るために司歳台監正と結託し、百灶内で発生した字鬼による混乱を黙認しました。
のみならず、天鏡閣から代理人の遺物を盗み出し、龍門のウェイ総督に秘術をもって歳獣を攻撃するよう圧を掛けました。それがいずれも失敗したため、玉門に陵墓への砲撃を急がせたのです。
陛下はいまだ開戦との勅を出してはおりません。玉門の発進と砲撃は、いずれも兵部の独断です。父上、惑わされてはいけません!
太尉は歳を滅するために、そこまでのことをしたのか……?
私の言葉に信が置けませんか?
……いいや、疑うはずがあるまい。
だが、今や玉門の前には歳の陵墓、背後には百灶がある。命令がどうあれ、まず玉門自身が乱れることがあってはならん!
前進を望む上の者たちと、様子見を望む下の者たち。両者が衝突すれば、玉門は内から瓦解するだろう。万一歳獣が本当に目覚めでもしたら、都市内の兵は全滅だ!
ですが兵士たちは、自分たちが炎国の意志ではなく、太尉の一意で戦うことを知っているのですか?
玉門の習わしでは、進軍前に将軍が城壁の上で陣太鼓を打ち鳴らして将兵を鼓舞するはずです。将軍はそれを行ったのでしょうか?
……
将軍の意思表示がない今、兵士たちの士気は高まらず、むしろ困惑しています。彼らは本当に、歳獣の爪から百灶を守るために戦っているのですか?
それとも、ただ太尉の思い描く炎国――濫りに武力を振り回す国家のために、やむなく消費される、最初の犠牲者に過ぎないのでしょうか?
ラウ――
父上、あなたは玉門のズオ将軍です。ですが、その前にこの炎国の平祟侯なのです――
先ほど外で不審な者が玉門に潜入したと急報がありましたが、まさか大手を振ってズオ将軍の将軍府にいるとは思いませんでしたよ。
ズオ将軍、ご子息が軍事禁止区域に無断侵入したが、果たしてこれは如何なる罪に処すべきでしょうか?
将軍が口を開こうとした瞬間、ズオ・ラウは半歩前に踏み出ると、腰元の刀を半ば抜いた。
先ほどの話はすべてお聞きになっていたようですね。それで尚その物言いであるのなら、太尉の一党とお見受けします。
若造が、何を訳のわからないことを!
ズオ将軍、ご子息のこの不遜な振る舞いを、見過ごされるおつもりか?
御史殿、私も問いたいと思っていた。太尉がこれほど歳との開戦を急ぐ理由は、一体何だ。
ズオ将軍は今更、軍令を疑うおつもりですか?
乱世の中、朝廷は一丸となって二十八策を定めました。そしてその二十八策の他に秘匿されていた最も重要な二つの策のうち優先されるのは、何をおいてもまず歳獣の禍を除くことです!
将軍は、外敵が襲来してから歳獣の解決を図るべきだとでも言うのですか!?
はっきりと言いましょう。太尉のみならず、朝廷内の百官も、大半がこの策を支持しています!
……太傅は何と? 陛下は何とおっしゃっているのですか?
黙れ。お前に口を挟む資格はない!
御史殿、私としても聞きたいところだ。
太尉と兵部を除いた内閣六部の者たち、ひいては陛下も、皆この件を知り、同意しているのか?
ズオ・シュアンリャオ、それは一介の軍人であるあなたの関わるところではありません!
つまり知らぬということか。
……
軍は命に従わねばならぬ。玉門が浮足立ってはならん。それゆえに私は戦を前にして兵部が将を換えるのを黙って堪えてきた……
だがこれから真に大乱の世が訪れるとなれば、兵部の所業は炎国にとって、自ら陣脚を乱し、内紛を招く行いではないか!?
確かに私は一介の武人だが、炎国の平祟侯でもある。このような理不尽な命を、奉ずることはできん!
……それほど死にたいなら叶えてあげましょう。捕らえよ!
どうやら貴殿らは本気で反乱を企てているようだ。
誰だ!?
我はタイホー。粛政院副監察御史を務めている。療養のため偶然こちらに滞在していたが、まさか兵部が独断で行動し、玉門を足掛かりに内乱を起こそうとしているとは思わなんだ。
我のことは、気にかける必要はない。我も貴殿らの行動に干渉はせぬ。
しかしこのタイホーが生きてこの場から出ることがあれば、今日の一件をなかったことにできるとは思わぬことだ。
兵部の特使と、彼に従う兵士は一時動きを止めた。
……もうよい。
今この時も、私は玉門の兵を束ね、この炎国を守る将だ。すべてが終わった後に太尉が私を軍法をもって処すると言うなら、罷免でも流刑でも、如何なる罰も甘んじて受けよう。
道を空けよ。私は我が将兵らに会いに行かねばならん。
ズオ・ラウが刀を抜き放って父を先導する。二人は真っすぐに議事堂の外へと歩いていく。
父上、特使を名乗る者どもはひとまず拘束しました。
うむ。次は……
ほ、報告します! 都市内の通信システムが……断たれました!
なに!?
連中は議事堂に踏み込む前に何かを察していたらしく、手を回していたようです。今は人力で伝令を送るしかありません。
動力層だけであれば何とかなるかもしれませんが、砲座は玉門全域に配置されています。砲撃命令はすでに下りており、兵士たちが受け取る命令も絶えず変化し続け……
急ぎ通信システムを復旧せよ。砲撃の開始だけは何としても阻止するのだ。
はっ!
タイホー、私の命令書を持って動力層へ向かえ。
承知。
ズオ・ラウ、都市構造深部の砲座はお前に任せる。
承りました!
……それと。
今日の件……よくやった。
……クソッ! この化け物ども、後から後から出てきやがる!
もう……これ以上は持たないぞ……
また一昼夜が過ぎ、百灶の字鬼に対する防衛線では、なおも死闘が続いていた。
不気味な字鬼は尽きぬ湧き水の如く、次から次へと押し寄せる。ひとたび消滅しても、次に現れる時にはより強大になっているのだ。
今の守備軍が相対しているのは、かつて「巨獣狩り」を行った軍勢そのものだった。
奮い立て……戦いはまだ終わっていないぞ! ここで屈しては名折れだ!
彼女が手に握る刀は刃こぼれし、身に纏う軽甲も次第に傷が増えてきていた。
陛下の勅命をお伝えいたします――
巡防営、御林衛をはじめとするすべての都市防衛兵は、百灶の中心区画より漸次撤退し、都市外の待機軍と合流した後に百灶より十キロ外へ離れるべし、とのお言葉です。
撤退だと!? 何の寝言だ。我らの背後には禁城があるのだぞ!
まさか陛下は中心区画まで放棄なされるおつもりなのか?
校将にご報告します。陛下のお考えはまさしくその通りです!
陛下……
陛下は今何処におられる?
……もしお前が尚も炎国に頭を垂れぬというのならば、千年に亘りお前が抱き続けてきた怒りは、私一人が背負うとしよう。
不臣の罪……それもまた私一人が討ち払おう。
千年続く恩讐は、ここで終わりだ。これより炎国の国祚は、新たな章を開くであろう……
国祚を守る天など端から存在しない。あるのはただ……定めて天に勝る人のみだ。
真龍は眼前の燃え盛るような光を正面から見据えた。巨大で怒りに満ちた古き者の双眸を見据えるかのように。
彼はただ、歳獣が完全に覚醒する前に殉じる時機を測り、その合図を待った。
……
あの胸を締め付けるような黄金色は、この時にはとうに消え失せ、一筋の残光だけが、ウァンの手のひらに落ちた。
その刹那、砕けた大量の記憶の奔流が彼の眼前を流れ去る。彼はその中からわずかな断片を、彼女にまつわる痕跡を必死に掴み取ろうとした。
百二十年間、かの故人は一度も夢に現れなかった。
ついに、彼は残されたわずかな欠片を掴んだ――
それは一冊の棋譜だった。
決して世に伝わるような名局ではなく、ただ兄妹の間で行われた戯れの一局だ。
彼は棋譜を裏返す。記憶に残ることがなかった、彼女の遺した言葉が果たして何だったかを確かめようとする……
そして、ついに彼は見たのだ。
手紙はそこで途絶えていた。
棋士はその秀麗な筆跡を長いこと眺めていた。己が今、生死を懸けた戦場に身を置いていることなど忘れた素振りだ。
道は異なれど、辿り着く先は同じ。
道は異なる。かの人はすでにこの世を去った。
では辿り着く先とは……?
……間もなく、ヨセが終わる。
……ジエが敗北したことはない。
彼女は己の決意と引き換えに、我々残された者の活路を勝ち取ったのだ。
その決意は、信頼によって為された。彼女は信じていたのだ。自分が死しても……我らならお前に打ち勝てると……
……
ああ……そうだ。
かつては、そうではないと思っていた……お前との勝敗こそ、唯一気にかけるべきことだと。
……だがあの一件で、私は悟ったのだ。
これこそがお前という野蛮な獣には……永遠に理解できぬ、人の心だ。
だからこそ……お前は必ず代償を払う。
やつれ果てた棋士は碁盤の前から身を起こした。碁笥に残る黒石はもはや僅かだ。
その動きはひどくゆったりとしていて、ぎこちなかった。まるで本当に百二十年もの間、ここに座したままでいたかのように。
お前は夢うつつの間に自らの空洞を傀儡と化し、この数百年間絶えず騒乱を起こしてきた。
お前はあの傀儡が陰にあり、我らは明るみにあると考えた。そのため傀儡は初め覚束ない足取りで歩み出し、次に潜伏して力を蓄え、ついには傍若無人に振舞うようになった。
だがお前は忘れている……
結局のところ、奴は独りだ。
百二十年前のあの一局。私が孤軍で敵陣に深入りし、盤面の広大さを忘れ、そこがすべてお前の勢力圏であったことを失念していたとするなら……
此度は奴の方が炎国各地に……果ては炎国の外にまで奔走し、次々と現れる黒い碁石に対処せざるを得ない立場になった。
さて、今回……果たしてお前は私の置いた布石を見破れるか?
だから何だ?
重傷を負い、深い眠りにつき、養生せざるを得ない巨獣が、終わりなき悪夢の中で精魂を削り、人と対局を重ね続ける……
かような行いはお前を消耗させ、生命を根から蝕むだろう。
虚勢を張ったところで我が目は欺けない……お前は確かに弱っている。
彼と歳との対決が、それだけで済むはずがない。
無数の可能性、無数の想像、無数の結末。
歳の陵墓の中央で、因果を越えた事象が一つ、また一つと雪のように舞い落ちる。舞い散る事象は数を増し、代理人はその雪の中に、死へと通じる終局を見た。
……もういい。
……
……
……ようやくか。
……
白を執る者、鏡中の私、歳の悪夢。
お前と会うのには、随分と骨が折れるな。